村上春樹現象と『騎士団長殺し』を読む


1. 数日前の朝の散歩道、東大駒場キャンパスの桜並木も落花の風情。野の花はいま盛りです。
氤岳居士さんコメント有難うございます。
「学部では、「歴史」だの「化学」だの「文学」だのリベラル・アーツを学ぶ」は「学部」と書いたから誤解を招いたのでしょう。「undergraduateでは、あるいは学部レベルでは」と書くべきでした。ご承知の通り英国の大学はカレッジ制で「学部」は存在しない、したがって、「化学」をリベラル・アーツの1つとして「専攻(major)」したと彼は言ったのだと思います。


2. 花は美しいが、人の世は怖ろしい。せめて浮世から離れてフィクションの世界を取り上げようと、今回は村上春樹です。7年ぶりの本格長編だという『騎士団長殺し』第1部「顕れるイデア篇」第2部「遷ろうメタファー篇」の2冊がベストセラーリストの首位を独占しています。どこの本屋も山積みになっています。

その後、新聞雑誌の書評もたくさん出て、「村上作品としてこの十数年最も面白いものだと思う」だの「自身による最良の村上春樹論」だの、好評です。

おまけに東京新聞は他に、「『騎士団長殺し』好調、おなじみの設定満載」(3月6日)、「私はこう読んだ」(3月14日)「本人に聞く、新作の思い」(4月2日)、と3回も特集記事を載せています。
アメリカはトランプ現象、方や平和な日本は「村上春樹現象」でしょうか。

私は決して彼の良い読者ではありませんが、7年前の『IQ84』は面白く読んでブログにも感想を載せました。

それに私のような老人でも、子供世代や孫世代との会話には、多少、この小説について知っておいた方がいいかもしれません。と思って、2月25日の発売日に早速購入して、すぐに読み終えました。
結論を言えば、「まあまあ面白い」でしょうか。


3.ただ、以下は、もっぱら不満になってしまうのですが・・・。
まずは、どこが面白いか?というと、おそらく
(1)「騎士団長殺し」とは何のこと?
(2) 絵に登場する騎士団長が「私」の前にあらわれて、自分を「あたしはただのイデアだ」と言う。どういう意味か?
(3) 同じく絵の人物「顔なが」や「ドンナ・アンナ」(「ジョン・ジョバンニ」)があらわれて、今度は「わたくしどもは、ただのメタファーであります」と言う。どういう意味か?
を自分なりに理解することにかかっているのだと思います。

総じて、本書に触れた書評はあまり面白くないですが、そこのところにあまり触れていないからでしょう。

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4.補足すると、
(1) はモーツアルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」の第1幕に登場する。「この曲を聴くたびに「騎士団長って何だろう」と気になっていた。「『騎士団長殺し』というタイトルが頭に浮かび、その感触の奇妙さに引かれた」➡じゃあ、それはどんな話になるのか・・・と物語がふくらんだ、村上はこう語ります。
つまり、モーツアルトのオペラが、彼にとってのイデアであり、メタファーになっていったということですが、物語からはその必然性が感じられないように思えます。


ドン・ジョバンニ」も物語の小道具の1つに使われる。
そして彼の小説の特徴は、こういった小道具が頻繁に出てくることです。
それは「物語」に欠かせない必然か?
あまたある書評の中で面白いとおもったコメントは1つあり、少し長いけど引用します。


「生活に困っている人も・・・拒否される人も出てこない。(略)もちろん、そうした物語はあってもいいし、それは今の作者が描く(描きたい)人ではないのだろう。けれど、2017年の日本に生きる一人の人間として、物語に登場するワイン、車、オペラ、というアイテムにどうしようもなく距離を感じてしまう自分もいる」(窪 美澄).

つまり「必然性を感じない」ということで、そういう感覚はとても健康ではないか、と感じるのです。

例えば、著書のお得意の表現はこんな風です。
――「彼は白いボタンダウン・シャツの上に、細かい上品な柄の入ったウールのヴェスト、青みがかったグレーのツィードのジャケットを着ていた。淡い辛子色のチノパンツに、茶色のスエードの靴を履いていた。例のごとく、すべての衣服が心地よさそうに彼に着こなされていた。・・・背後に銀色のジャガーが見えた」


こういう文章を読んで小説家「窪 美澄」もいらつくのではないか。
チノパンツが何たるかも知らない、ジャガーに乗ったこともない老人は、そこに「必然」も、まして「イデア」も「メタファー」も感じません。


5.しかも、面白いと思うのは、書いている村上春樹がもう68歳だということです。
上述したチノパンツの男は50代の設定。
主人公の「私」は36歳。30歳も若い主人公を設定する「必然」はどこにあるのか?
村上春樹は、自らの「老い」を、「人生下り坂に向かっていく心意気」をなぜ書かずに、いつまでも、若い、あるいは中年の男の「ダンディな」生き方にこだわるのか?

こういう文章もあります。
―――「大きな鍋に湯を沸かし、トマトを湯箭して皮を剥き、包丁で切って種を取り、それを潰して、大きな鉄にフライパンで、ニンニクを入れて炒めたオリーブオイルを使って、時間をかけて煮込む。こまめにアクを取る。
(略)私自身は古い時代のジャズを聴きながら料理をするのが好きだった。よくセロニアス・モンクの音楽を聴いたものだ。『モンクス・ミュージック』が私の好きなアルバムだ。コールマン・ホーキンズジョン・コルトレーンが参加して素敵なソロを聴かせる。でもモーツアルト室内楽を聴きながらソースをつくるのもなかなか悪くなかった」


こういう文章を読むと、1960年代にニューヨークに住んで、グリニッチ・ヴィレッジで友人とジャズの生演奏を聴いた老人としては、正直いって勘弁してよ、と言いたくなります。
もちろん主人公が料理するのは必ず、サラダであり、パスタソースであり、そして料理をしながら聴く音楽に、森進一も都はるみも出てきません。
それは『物語』と必然的に結びついているのか?これも「メタファー」か?


そして最後に、何といっても、性描写が多すぎる。
これはさすがに、小説家の中島京子がある対談の書評で、「なにしろ、なんだろう、このセックスの多さは、と思いますよね」と言っています。
まったく真っ当な感想と思いますが、どうもほとんどの批評家は「村上春樹」というブランドに遠慮しているのか、そういうことを言わない。


68歳の老人がこれだけ性の描写を続ける「必然」が、これまた分かりません。
同じ性でも、ノーベル賞作家の川端康成が「デカダンス文学の名作」と評される老人の性を描いた「眼れる美女」を書いたのは61歳のときです。
この方が、はるかに「必然」を感じるのですが、村上は、なぜ、かくも「若作り」をし、「西洋の音楽や料理」に拘るのでしょうか?
英訳されて日本人以外に読んでもらうことの方が大事だと思っている訳ではないでしょうに。


5.じゃ、どこが面白かったのか?と訊かれると、「主人公の私が肖像画家という設定になっている物語であること」をあげたいと思いますが、その点に触れる紙数はなくなりました。