東京新聞「春はイースター商戦?」と駒場児童館へ散歩


1. 東大駒場は山桜と八重がまだ満開です。キャンパスは元気な新入生の姿が多くみられます。
他方で欧米の学校はしばらくイースターの休暇中。その間、英国から娘の友人一家が観光旅行に来日したことはブログに書きましたが、入れ替わりに今度は5歳の孫もやってきました。


まずは東京新聞の話題からですが、甥が部長をしていることもあって、長年購読しています。

前身が「都新聞」という芸能記事に強かった新聞で、いまは中日新聞の子会社ですが、伝統を継いでスポーツ・芸能に強く、「浅田真央選手引退」であれば朝刊の1面トップ、おまけに連日特集記事を組みました。
こちら特報部」という2頁組の紙面も面白く、週刊誌やTVのワイドショーは一切見ないので、週刊誌ネタに相当する記事もあり参考になります。
もちろん、今では数少ない「リベラル」を標榜する新聞でもあり、1面トップに、「「富の集中」日本も」だの、「IOCなどへの手数料4.9億円→90億円、五輪契約検証できず、本紙公開請求に都が非開示」という見出しで記事を載せたりします。浅田選手も1面トップ、このバランスが面白いです。これら全てが署名記事なのも特徴です。



日経や産経を愛読する方のお気には召さないかもしれませんが、自称「オールド・リベラリスト」(言うだけで何もしない、という自己批判も含めて)としては、愛読しています。


2 その東京新聞ですが、先週、イースター(復活祭)に関する記事が載りました。
今年のイースターが4月16日(日)だったことに触れ、「春はイースター」「第二のハロウィーンへ・・・業界狙う次の商機」と題して2回載りました。

(1)「ハロウィーンの次の商戦としてイースターが注目されている。だが違和感はないか。イースターはキリストの復活を記念した祝祭で、宗教色が非常に強い。信徒でもない人たちが、イベントとして楽しむことを、クリスチャンはどう思うのか」というリード文で始まり、

(2) 「イースターは、死ぬということや本当の命とは何かということを考える大事な時だ」として、お祭り化することへの懸念を述べる牧師(日本人)と、「気にならない。クリスマスのツリーだってキリスト教と無関係。ただのイベント」と言う牧師(在日アメリカ人)の2つの意見を載せ、

(3)「今年のイースター商戦の市場規模は推計で320億円。ハロウィーンやバレンタインの4分の1弱の規模だが、3年前と比べて130億円増えている」そうです。


3, まあ何でもありの「文化の雑種」が日本なのでしょうから、とくに気にしなくてもいいのかもしれませんが・・・。

しかし、キリスト者ではなくとも、「復活」の意味についても少し考える機会になればいいのではないかな、とも思います。
そういう私もさして知識を持っているわけではありませんが、
例えば遠藤周作の『イエスの生涯』『キリストの誕生』は3回読んで、とくに前者の後半の「受難」と「復活」を語る文章は深く印象に残りました。

(1)「復活」〈十字架の死から3日後にイエスが甦ったと弟子たちが語る〉はもちろん私たち非キリスト者の現代人にとって、理解できる出来事ではありません。
遠藤自身も、「復活」は果たして歴史的事実なのか、キリストの永遠的生命を語る象徴的な挿話なのか、と問い、それを「謎」とよび、同時に「なにか、弟子たちの心を根底からくつがえすだけの衝撃的なものがイエスの死の前後起こったと考えるのが、この謎を解く方法の一つであるように思われる」と言います。


(2) まず弟子たちは、イエスがこのような悲惨にしてみじめな破局を迎えるとは夢にも考えていなかった。
→しかも、そういうイエスを神はなぜ助けないのか、なぜ沈黙を守り、あの死の苦悶にも眼をつぶっておられるのか。

その弟子たちはペテロを筆頭に「我々と同じように、よき話を聞こうという気持は多少あっても、信念弱く、肉体的恐怖のためには師をも犠牲にする卑怯な性格があり、そのくせうぬぼれと世俗的野心のみ強いという平均的人間だったのである」。


(3)  その彼らが、イエスの死後「まこと、この人は神の子なり」(マタイ)と感嘆の叫びをあげたのはなぜか?

――「何もできなかった人。この世では無力だった人。・・・痩せて、小さかった。彼はただ他の人間たちが苦しんでいる時、それを決して見棄てなかっただけだ・・・。そして自分を見棄てた者、自分を裏切った者に恨みの言葉ひとつ口にしなかった。「悲しみの人」であり、自分たちの救いだけを祈ってくれた。」
→「無力なイエス、何もできなかったイエスの悲惨な死によって −それが悲惨な死であるがゆえにその死のまぎわの愛の叫びは ――弟子たちに根本的な価値転換を促したのだ。
・・・こんな人を弟子たちはかって知らなかった。
弟子たちはその時、はじめて、わかりはじめた。生前、イエスが語っていたことが何であったかを。


(4) 遠藤周作の理解が通常のキリスト者の見解と同じかどうか、私にはわかりません。
しかし11歳で必ずしも自らの意志でなく洗礼を受け、「キリスト教とは何か、キリスト者とはどういう存在か」を生涯かけて考え続けた彼にとって、「イエスの復活」とは、「(私たちと変わらない平均的な人間である)弟子たちの魂と精神の“復活”だった」と理解したのだと思います。

4. まったく専門外の話題を臆面もなく取り上げてきました。
なぜこんなことをくだくだ考えたか?というと、冒頭で触れたように、学校のイースター休暇の間、英国からやってきた5歳の孫と付き合ったからだけのことです。


老夫婦でどうやって彼と付き合うかをいろいろ考えて、先週の某日は、駒場にある目黒区立「児童館」に連れて行きました。

ここは、 小体育館 (ボール、一輪車、なわとびなど出来る) 遊戯室(オセロ、将棋、 読書などで遊ぶ) 図工室(粘土、木工作など)の 部屋があり、常時 係の人がいます。 朝9時からいつでも 使えて、好きな時に帰ればいい。便利な、よく出来た施設で、職員も実に親切です。

平日の午前中に行ったので、乳幼児を連れた母親が2組いただけでごく空いていて、孫はボールやフラフープや粘土づくりで遊んだりして、大いに喜んでいました。
どこの区にも同じような施設があるのでしょうが、たまたま拙宅に近く、行きは井の頭線で1駅、帰りは駒場野公園経由、花みづきと八重の咲く駒場通りを、老夫婦と3人で歩いて帰りました。道々、上に書いたような遠藤周作の想いを考えながら歩きました。

日本の、こういう子供向けの施設は、私の子供時代なんかよりはるかに充実していて、その点はいまの子どもは幸せだなあと痛感しました。