再び「保守主義の危機」とリベラルであること

1.蓼科高原も先週火曜日ぐらいから晴れ間が多く、八ヶ岳がきれいに見えました。と思っていたら、週末は台風本土上陸の情報。もっとも当地は曇り空と少しの雨ですみました。

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f:id:ksen:20190727112430j:plain欧州は記録的な猛暑だそうで、ロンドンもパリほどではないけど観測史上最高の39度、普通どこの家も冷房などないのでたいへん(私が昔住んだ市内のフラットももちろん冷房などなかった)、娘の一家は赤ん坊もいるので心配です。

2.前回の「保守主義」の危機については、ブログも入れて3人の方がシェアして下さり、メールも入れて9人からコメントを頂きました。改めてお礼を申し上げます。

忙しい皆さんの関心は他に移っているでしょうが、暇な老人は再度取り上げたいと思います。

エコノミスト誌の論述は全文を紹介したいぐらいですが、かなり長いのでそうも行きません。以下、多少繰り返しもありますが、印象に残ったところを補足します。

(1)今や、明らかに新右翼が「啓蒙主義保守主義Enlightenment conservatism)」

に勝利を収めつつある。これは本誌のような「古典的リベラル」にとって嘆かわしい事態である。

(2)アメリカを始め、多くの先進国で、保守党が反動的なナショナリズムに乗っ取られ

ている。さらに深刻なのは、政党(アメリカでは共和党が保守、民主党がリベラル)だけでなく、保守という政治思想そのものが脅威にさらされていることである。

(日本を具体名ではあげていませんが、「多く」の中に入れているでしょう)。

3.このように、リベラルの同誌からすれば「対岸の火事」と言ってもいい「保守の危機」に対して、あえて危機感を表明しています。

これに対して「対岸」にいる「保守」そのものはどう考えているのでしょうか?

まず彼等自身が危機感を感じ、発言し、行動で示してほしいものです。

アメリカでは、トランプが非白人の4人の女性民主党下院議員に対して「自分の国に帰れ」という信じられない発言をし、今月17日民主党議員が上程し批判決議が可決されました。しかしこれに賛同した共和党議員はたった4人でした。危機感を感じているとは思えませんね。言うまでもなく日本は危機感より、「忖度」する国です。

4.そこで、今回は保守とリベラルについても、もう少し考えてみたいと思います。

この両者がどう違うかについて述べて、にも拘わらずしばしば同盟相手(allies)でもある、だからこそ現状を憂いているのだという同誌の指摘は前回も紹介しました。

両者の違いについて、同誌はこうも言います。「保守は郷愁(ノスタルジア)に傾き、無秩序を恐れる。リベラルは、食べ物から外国旅行に至るまで、新しい経験に対してオープンである」。

f:id:ksen:20190718082657j:plain5.「食べ物から外国旅行に至るまでオープン」という表現が面白かったので、私の知っているリベラルって具体的にどういう人だろうと考えてみたのですが、その前に、歴史的にリベラルの代表と言われているJ.S.ミルとオルテガ・イ・ガセットについて述べます。

そもそも、保守とは、リベラルとは何か?について理屈で考えると、水掛論になり勝ちです。

その理由の(1)は、思想としての保守もリベラルも、歴史とともにかなり変わってきていること。だからこそエコノミスト誌は、自らを「古典的リベラル」、危機にあるのは「啓蒙主義保守主義」と形容詞をつけて明確にして論じます。

理由の(2)は、両者とも思想や哲学だけではなく、個々人の心性・気質・態度の表れでも

あること。従ってどんな人間も両者を合わせ持つのが普通で、100%保守も100%リベラルもいない(リバタリアンを別にすれば伝統や秩序を無視するリベラルもいないし、新右翼を別にすれば寛容を否定する保守もいない)、にあると思います。

6.それなら、「あの人はリベラルだ、保守だ」をどうやって判断するか?

そもそも論ではなく、あくまで個々の問題や事例について、

その人の(1)言説や(2)行動から判断するのが大事ではないでしょうか。

例えば、(1)であれば、オルテガはスペインの政治思想家で著書『大衆の反逆』(1930)は20世紀を代表する書物と言われますが、彼を「保守主義者」と呼ぶ人もいます。

リベラルは、よく言えば「寛容」、悪く言えば「いい加減」ですから、別に彼がどちらでも気にしません。

しかし同書に私の好きなオルテガの以下の言葉があり、これだけで私には十分です。

リベラリズムとは、至高の寛容さのことである(英訳:”Liberalism is,・・・, the supreme form of generosity”)」「リベラリズムは、多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かって地球上できかれた最も気高い叫び(the noblest cry that has ever resounded in this planet )なのである」。

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f:id:ksen:20190306072513j:plain例えば(2)であれば、『自由論』を書き、明治の初めに日本でも紹介されて自由民権運動に影響を与えた19世紀の英国の思想家J.S.ミルについて、「その主張は保守主義と呼んでいいのではないか」という反論を今回、メールで頂きました。

『自由論』をどう読むかはそれこそ各人の自由ですが、私が大事に思うのは、彼が1860年代に、女性参政権を主張し、下院議員になって行動したという事実です。英国で認められる50年以上も前、まだごく少数の意見だった頃にです。

このように、そもそも論で「保守とは」「リベラルとは」を定義するのではなく、個別の局面でその人が、いかに発言し、行動するかで判断することが大事ではないか、と思う者です。

7.そこで同誌が言う「リベラルは食べ物から外国旅行に至るまで新しい経験に対してオープンである」が面白かったので、最後に、勝手に実名を出してまことに恐縮ですが、フェイスブックの友人、木全氏・岡村氏・下前氏の3人を「私が考えるリベラル」として、独断で紹介したいと思います。

(1)木全氏はアメリカに20年住み商社マンからシカゴで事業を起こし(いまは息子さんが引き継いでいる)、それだけでも「保守」とは思えませんが、帰国して毎年のように外国旅行を続けています。若者に交じって国際交流を兼ねた安い船の旅(NGOピースボート)に始まり、キューバベトナムミャンマーなどを毎年訪れる。ほぼ同年令の高齢であるにも拘わらず、好奇心旺盛。

(2)岡村氏は、若いときに海外を放浪、紛争地域や安全でない辺鄙な場所も含めてバックパッカーとして「地球を歩き」まわり、地元の人と交流し、一緒にキャンプもし、豪州ではレストランで皿洗いしたり映画にも出たこともある様々な逸話の持主。

いまは生まれ育った京都祇園町の顔役ですが、写真のように毎朝バイクに乗って颯爽と

「イノダ」に現れます。

f:id:ksen:20190513084704j:plain(3)下前氏は、同じく生粋の京都人で、毎日ブログを書いている「先生」と呼ぶ人も

多い博学居士。

本職は理髪屋で70 歳を越えていまも現役ですが、ここには外国人の旅行客がよく散髪に訪れ、SNSの口コミで新しい客も増えて、ブログを拝見すると、(失礼ながら)片言の英語で見事に一期一会の交流をしている、まさに「オープンな好奇心」の持主です。バスで知り合った京都在住のウクライナの女性とも会話を交わし、料理を教えたりしています。大叔母が明治以降最初の国際結婚といわれるモルガン財閥の御曹司と結婚したモルガンお雪で、その国際性が彼のDNAにも引き継がれているのかもしれません。

(4)上記3氏とも、ご自分を「リベラル」とは夢にも思っていないかもしれません。思想信条のレベルでは必ずしもリベラルではないかもしれません。

しかし、エコノミスト誌の定義に従えば少なくとも心性・気質では立派なリベラルではないでしょうか。