2019年の出来事――ローマ教皇の来日を思いだして

1.一年を振り返って,ブログでも取り上げましたが、京都での茶事が私にとってそこそこ思い出に残る出来事でした。

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 私事ながら、使われた茶道具が先年死去した長姉の遺品だったことに意味がありました。三重県松坂で長年お茶を親しんでいたので、京都の従妹に引き取ってもらいました。

 それなら、これらを使ってお茶を頂きながら亡き長姉の思い出を語ろうという従妹の配慮で京都に招いてくれたもので、その心遣いが嬉しかったです。

 長姉はお茶もやりましたが、熱心なカトリック信者で、若い時に東京四谷にあるイエズス会聖イグナチオ教会で洗礼を受けました。今回の、イエズス会から初めて出たローマ教皇の来日を知ったら、さぞ喜んだだろうと思います。

f:id:ksen:20191202092030j:plain2. 今年最後のブログは、この教皇の来日についてです。

 ローマ教皇は約13億人の信徒をかかえるカトリック教会の指導者であり、バチカン市国の元首でもあります。現教皇は2013年に就任。同年タイム誌は、バチカンの改革や弱者との接触に精力的に取り組んでいるとして、「今年の人(Person of the Year)」に選びました。ブログでも取り上げました。

https://ksen.hatenablog.com/entry/20140102/1388623681

 1936年アルゼンチン生まれ、イタリア系移民の息子。庶民派で、神学者だった前々教皇・前教皇と異なるキャリアを持ち、質素な生活とスラムを定期的に訪れるなど社会問題への関わりで知られます。「健康状態が十分でなく実現しなかったが、神父になり、最初に赴任地として希望したのが日本だった」そうです。  新大陸から初めてのローマ教皇で、13世紀の聖者アシジのフランシスコを敬い、その名前を教皇として初めて選びました。

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3. 今回の来日は11月23日~26日の4日間、長崎・広島を訪れ、祈り、語りかけまし

た。東京でミサをあげ、さまざまな人、とくに苦労する人たちに会いました。

 11月27日付日本経済新聞で小林編集委員は「来日は何を残したか。痛感するのは、夢や時代の精神を人々に呼びかけることの大切さと難しさ。そして分断された世界をつなぎとめ、未来を語る国際的なリーダーシップへの強い渇望だ」と書き、「理想語らぬ政治に危機感、そんな状況だからこそ夢を語る教皇の言動に関心が集まる。安らぎを保障し、理想の世界を示すという本来の役割を政治が果たしていないのだ」と訴えました。

 12月1日付東京新聞では宇野重規東大教授が、「理念の価値教えた教皇」と題して、「教皇が繰り返し強調したのは苦しみや試練に耐える人々に寄り添うことであった。迫害を受けてきたキリスト教徒はもちろん、原爆被害者、東日本大震災の被災者、さらには日本で苦労している難民留学生と言葉を交わすことに意を注いだのは、来日の目指すところを示している」と書きました。

 帰国後の27日、バチカンで行われた恒例の一般謁見で、全世界から集まった信徒たちに日本訪問について語りました――「原爆の消えることない傷を負う日本は、全世界のためにいのちと平和の基本的権利を告げ知らせる役割を担っている」と。

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4. 長崎と広島では、長い祈りのあと聴衆に語り掛けました。

(1) 長崎の爆心地公園では、最後にアシジの聖フランシスコの平和の祈りを引用しました。

――「ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でない方もおられることでしょう。それでも、アシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています」、そして一部を引用しました。

――「主よ、私をあなたの平和への通り道(Make me a channel of your peace)としてください。憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところに許しを、絶望があるところに希望を、悲しみがあるところに喜びをもたらす存在としてください。」――

(2) 祈りはさらに、「主よ、私が多くを求めるのではなく、人に慰められるよりも人を慰めること、人に理解されるよりも人を理解すること、人に愛されるよりも人を愛することを、求めさせてください~~」という言葉が続きます。

 いままでも、マザー・テレサを始め著名な宗教家や政治家が引用や朗誦を行い、公共の場で聴衆と共に唱和するなどして有名です。

f:id:ksen:20191225085416j:plain マザー・テレサは この祈祷文を毎朝唱え、1979年のノーベル平和賞授賞式においても聴衆に共に唱和することを呼びかけました。

(3) 聖歌になっていて、YouTubeで聴くことができます。短い・美しい曲です。 長崎のスピーチのあとでも歌われました。

20年前のウエストミンスター寺院でのダイアナ妃の葬儀でも歌われました。

https://www.youtube.com/watch?v=daGWdbrSGBM

この歌のことも2年前のブログで取り上げました。

5. 実は、茶道とカトリックは意外に縁が深かったという話があります。

そのことを野上弥生子三浦綾子も書いています。私のお茶の先生から頂いた葉室麟の『弧篷のひと』という小説は千利休の高弟だった小堀遠州の一生を描いた作品です。

f:id:ksen:20191225144732j:plain 本書で著者・葉室麟は、

(1) 千利休には、かってキリシタンではないかという噂があった(彼の妻もそうだと言われる)。

(2) 利休の七哲と呼ばれる高弟には、キリスタンが多かった。蒲生氏郷高山右近はキリスタン大名として名高いし、細川忠興の妻はガラシャ夫人である。古田織部が指導して作った織部焼の茶碗には、しばしば十字のクルス文が施された。

(3) 利休の考案したにじり口は、キリスタンの教えにある「狭き門より入れ」に合わせたのではないか。お濃茶を回し飲みするのもミサの所作と似ているといえる、

として、「茶の湯の亭主は、司祭のごとく儀式を司って客を聖なる境地に導く役割を果たしているとも見える」と書いています。 

(4) 葉室氏の指摘がどこまで当たっているかは素人の私には分かりません。しかし長姉が熱心なカトリックで、お茶も真面目にやっていたことは事実です。

 姉が洗礼を受けるにあたっては、13歳のときに広島で被爆した体験も大きかったと思います。1945年8月6日、女学校の同級生は勤労動員に駆り出されて、参加した全員が被爆死しました。彼女は躰の具合が悪くて家で寝ており、奇跡的に助かりました。

 私が昔京都で働いていたころ、時折、松坂の姉の家を訪れてお茶を頂くこともありました。今年は京都の従妹の家で、姉が生前愛した茶道具を眺めながら、生前の彼女が松坂でひとり点てたお茶を飲みながら広島での少女時代を思い出していたのかなあと考えました。

 それでは皆様、良いお年をお迎えください。