4年振りのクラス会のこと

  1. 6月22日(木)、高校3年生の時のクラス会が開かれました。

  ご多聞にもれずコロナで中断しており、4年振りの再開です。

場所は大手町の日本工業倶楽部で、22人が参加しました。東京駅や新丸ビルのすぐ近くで、都心のビル街を歩くのは久しぶりでした。

  3年の間に逝った友もおり、体調理由による欠席の通知も増えました。それでも元気な友との再会が実現しました。

  1. この会は、出席者が全員、2~3分喋るのが恒例で、この日も、趣味の話、思い出

話、健康や奥様の介護の話など様々でした。

(1)中高6年続く男子校のせいか仲が良く、いまもいろんな名目で集まっている報告もありました。

例えば、田園都市線は当時玉川電車と呼ばれた路面電車でしたが、これで通学した仲間が集まる「玉電麻布会」もある。

「ZOOMの会」は週1回、電気自動車やCHAT-GPTの話などを講義する人もいる。

(2)趣味の集まりも、OB合唱団に参加してモーツアルトのレクイエムを歌う人がいます。

オンライン俳句の会もあります。集まった作品を幹事が後日メールで伝えてくれます。吟行もするそうです。幹事の某君は、民謡や漢詩の師匠でもあり、この日も十八番の「江刺追分」を披露してくれました。

(3) 私は社会人になって海外勤務が多かったせいもあり欠席することが多く、その後もあまり顔を出していません。羨ましく皆さんの報告を聞きました。

  1. クラスの雰囲気が良かったという話も出ました。

(1)他から転校してきた某君はまったく違和感なく、すぐに仲間に入ることができた。

その理由としてやはり担任の戸田通男先生の人徳が大きかったと、思い出話が弾みました。

「リベラルな教育方針で、何をやってもいいが、カンニングだけは駄目」と言われた。

(2)昭和19年東京帝大文学部卒。当時は30代初めだったでしょう。東洋史の授業担当でしたが、当時の高校では珍しい科目だったかもしれません。

 最初の授業に、黒板に大きな中国の地図を描いたことを覚えている人もいました。

(3)当時は殆どの教師に「あだ名」がついていて、生徒たちは陰では「ハリパン(張り切りパンツの略、体操の先生)」、「カッパ」「ラッキー」「ゲタ」などと呼んでいて、今でも「あだ名」ならすぐに出てきます。ところが戸田先生には不思議にあだ名がなく、「戸田さん」と呼んでいました。

(4) 温厚な人柄で、慕われていました。

大学生になっても、家庭教師のアルバイトを紹介してもらった、進路や結婚の相談にも乗ってもらった,

実は麻雀が大好きで自宅でよくやった、自分はやらないが母親と一緒に我が家で麻雀卓を囲んだこともある・・・等々。

 

(5) そういえば、高校3年は6組までありましたが、クラス会があるのはこのクラスだけです。

初回は社会人になって2年後ぐらいではないか、場所はたしか老舗の洋食屋「日本橋たいめいけん」だった、戸田さんは毎回必ず出てくれた・・・など記憶している人がいて、やはり彼の人徳もあって長く続いているのでしょう。

  1. 工業倶楽部の会員である某君と二人で幹事をやったのですが、何とか終えてほっとしました。ここは大昔、結婚披露宴に使用した場所でもあり、そのことを覚えてくれた友人がいました。彼はその宴で、他の友人と一緒に「はるかな友に♪」を歌ってくれました。