「情報が少ないということはある力を秘めている」(星野道夫)

f:id:ksen:20190817093141j:plain

1.昨日で今年の8月も終わりました。地元のJAスーパーにはお盆の頃は生産者直売の野菜の買い物客があふれましたが、その賑わいも終わりました。

この2か月、田舎で暮らし、山や田畑を眺め、人に会い、ほぼ毎日散歩をし、図書館でたくさん本を読みました。地元の手軽な温泉にも入り、諏訪湖を一望できる「天空のそば処」でそばを頂いたりしました。

地元の信濃毎日を購読。同紙には連日のように、「戦争体験を聞く集い」など74年前に終わった先の戦争を振り返る長野県内の様々な活動の記事が載りました。

日本の場合、7月、8月は過去や死者を想う時季でもあるでしょう。

しかし、来年の今頃は東京オリンピックで、国中それどころではなく誰もがテレビの前に座り込んで1億人が同じ情報に熱狂し、過去の戦争は忘れられるのかなと考えました。

f:id:ksen:20190825111005j:plain

f:id:ksen:20190813152923j:plain2.テレビやインターネットのお陰で、来年のオリンピックに限らず、誰もがどこにいても大量の情報に同じように接することが出来る、これは果たして良いことだろうか、というようなことも考えました。

長野県茅野の山奥にいても、例えば、

(1)香港のデモ――デモはすでに3か月目に入り、一向に収束せず、警察との衝突は激化し、多くの民主活動家が逮捕され、北京政府は国の威信をかけて民主化の要求に応じる気配はない。

軍隊の導入も懸念される事態であり、そうなれば30年前の天安門事件を上回る破滅的な事態に陥る、と世界が憂慮している。(英エコノミスト誌も米タイム誌も毎週取り上げている)。

北京は世論を無視しても残酷な手段に踏み切るのか?

(2)英国のEU離脱――ジョンソン首相が、夏休みを終えた議会の開会時期の延期を女王に申請。女王は過去に慣例があるので拒絶できない。

しかし慣例はあくまで技術的な理由によるもので、今回のような「場合によって合意なき離脱に踏み切る、そのためには議会で審議する時間的余裕を与えない」という意図的な「延期」は首相の権限逸脱であり民主主義の破壊行為である、として与党を含めた議員や国民の強い抗議が起きている。

英国はどこに行くのか?

―――というような情報がいくらでも入手できます。

(3)情報社会というのは、何とも便利で有難い時代です。

しかし、情報を得て知識は増えるかもしれないが、一庶民としては所詮それだけのことではないのか。

ジョンソンや(あるいはトランプや北京共産党)の悪口を言ったところで、何かが変わるか。

香港の若者のように自ら行動したって、結局は、弾圧され、獄に入れられてしまうかもしれない。果たして彼らは世界を変えられるだろうか。

しかも、70年前のヴァイニング夫人の言葉――「いまの時代にはあらゆる種類の宣伝が沢山行われています。そのあるものは真実ですが、あるものは真実ではありません。」――が一層身近に感じられる時代である。

東京にいると熱心に情報を追いかけているのですが、森の緑に囲まれると人の気持ちも少し変わるのでしょうか。

f:id:ksen:20190827140239j:plain3.そんなことを考えながら、星野道夫の『旅をする木』と題する本にあった、

「情報が少ないということはある力を秘めている」

という言葉を思いだしました。

(1)職場で年下の同僚だった女性とその方のお嬢さんに時々会って、お昼を一緒にします。星野道夫の名前は、大学3年生のお嬢さんから教えてもらいました。

星野道夫は、一方に、その生き方に強く惹かれ、熱烈なファンになる少数の人たちがいる、他方に彼の名前も知らない沢山の人がいる、そういう存在ではないかなと思います。

私はこの年になるまで後者の1人でした。ところが、彼女に勧められて彼の2冊の本、『旅をする木』と『森と氷河と鯨』を読んで、ファンになりました。

f:id:ksen:20190804171256j:plain(2)星野道夫は、1952年生まれ。慶応義塾大学を卒業し、写真家の助手を務めたのち、アラスカ大学野生動物管理学部に入学。そのままアラスカを本拠にして活動し、先住民と親しく交わり、先住民の文化や動物や自然を追いかけ、アラスカの魅力を探り、写真や文章で発信を続けた。

1996年43歳のとき、ヒグマに襲われ、不慮の死をとげた。

死後も写真展がしばしば開催され、著作集全5巻(新潮社)ほか、著書も数多く出版されている。

4.以下に、エッセイ集『旅をする木』(文春文庫、1999年)から、上記の言葉がどのような文脈の中で書かれたかを紹介したいと思います。

(1)同書は雑誌に連載されたエッセイをまとめたもので、この中に「ル―ス氷河」という短い文章がある。

ルース氷河はアラスカ山脈の南面に伸びる、マッキンレーをはじめ4000~6000メートルの高山に囲まれた氷河で、「宇宙と対話ができる不思議な空間」と彼は言う。

「そしてここに、無人の岩小屋がある。・・・深い口を開けた無数のクレパス、雪崩・・・あらゆる危険に満ちた氷河上で、この岩小屋周辺だけが小さな安全地帯だった。テントを張りながら雪の中でキャンプ生活をし、もし何かがあれば、この岩小屋に逃げ込める」。

(2)星野はそんな場所に、学生時代の仲間とともに11人の日本の子どもたちを連れてくる。「小さなセスナに乗り、すさまじい岸壁や氷壁が両側に迫る氷河をみつめ、深い新雪の上に着陸し、ラッセルをしながらこの山小屋に辿りつく」。

1週間、キャンプ生活をし、雪を溶かして水をつくり、炊事をし、ストーブに薪をくべ、夜の氷河をゆらめくオーロラを見る。

(3)そしてこういう文章を綴ります。

―――「ルース氷河は、岩、氷、雪、星だけの無機質な高山の世界である。あらゆる情報の海の中で暮らす日本の子どもたちにとって、それは全く逆の世界。しかし何もないかわりに、そこには、シーンとした宇宙の気配があった。氷河の上で過ごす夜の静かさ、風の冷たさ、星の輝き・・・・情報が少ないということはある力を秘めている。それは人間に何かを想像する機会を与えてくれるからだ」―――

f:id:ksen:20190817172256j:plain5.上で紹介した大学3年生の若者は今年の3月、アルバイトでお金を貯めて、念願のアラスカに初めて行ったそうです。「星野さんが生前一緒に行動した親友のアメリカ人の元小型機のパイロットにも会った。野生のムースも見、オーロラも見に行き、夜空に輝き・ゆらめくオーロラは言葉では言い表せない、カメラでも捉えられない素晴らしい眺めだった」と言っていました。素敵な行動力だと感心して話を聞きました。

私のような若いときからの臆病者は、とてもそんな冒険的な生き方は出来ません。

それでも田舎に2か月暮らし、星野さんの本など読むと、自分が本当に知りたいのはどんな情報だろうか、不要な情報から身を引くことができるだろうか、と考えることが多くなります。

もちろんアラスカの氷河にいる訳ではないので、たくさんの情報は嫌でも目に入り、香港の若者と民主化や英国の議会制民主主義の行方は大いに気になるのですが・・・・。

 

 

『皇太子の窓』(エリザベス・グレイ・ヴァイニング著)再び

1.黒幕子さん、8月4日付ブログへのコメントのお礼が遅れました。「神長官守矢資料

館」の情報有難うございました。諏訪地方の古代の歴史に興味を持っておられることに敬意を表します。

また前回は岡村さんから、自分にも良い家庭教師がいた、映画「アラモ」を一緒に観に行き、「子供心にも戦争は駄目だと思わせた映画だった」とのコメントを頂きました。私も懐かしくなってブラザース・フォーが歌う「遥かなるアラモ」をYou tubeで聴きました。

https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2RA0DrfPF5dD1sAIJuJBtF7?p=%E9%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A2&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8 

f:id:ksen:20190818094711j:plain田舎の夏もそろそろ終盤に入り、我が家は長女夫婦がやって来て、畑の後始末を手伝ってくれました。一緒にやっている、『皇太子の窓』を貸してくれた「友人」夫婦と6人で汗をかき、終わってから友人宅で今年の農作業の終わりをスパークリング・ワインで乾杯しました。

2.ということで、今回も『皇太子の窓』からヴァイニング夫人の思い出を補足します。

(1)まずは、学習院での夫人の同僚だった「友人」の父親について一言ふれると、

夫人の発案である日、皇太子と5人の学友が東京のアメリカン・スクールを訪問し、授業を参観した。

お返しに同校から6人の生徒と4人の先生が学習院を訪問し、安倍能成院長が出迎えて、友人の父親が英語で学校について説明した。ここに同氏が登場します。

(2)翌日ヴァイニング夫人は皇太子に「アメリカン・スクールで何にいちばん興味を惹かれたか?」を質問します。

皇太子は「教室です。子供たちが自由にのびのびとしている」と答え、「なぜ、あんなに自由なんですか?」と先生に尋ねる。

彼女が答えると、「アメリカのやり方と日本のやり方とどちらがいいでしょうか?」とさらに尋ねる。

f:id:ksen:20190825080416j:plain

(3)「殿下はどちらだとお考えですか?」と問いを返すと、皇太子は笑って「先生にお訊きしているのです」と切り返す。

そこで、「日本の学校にもよい点はたくさんありますが、私はアメリカの方が良いと考えます」と答えて、自由と規律の問題についても話し合った、と夫人は書きます。

(4)この逸話が面白いのは、二人がそれぞれ遠慮せずに自分の意見を述べ、質問もし、その上でさらに話合いを広げていく姿勢です。良い先生だと思うし、しかも、皇太子はまだ中学生で、「決して流ちょうではなかったが」英語でのコミュニケーションです。

3.こんな風に、ヴァイニング夫人は、「自分は英語を教えることを頼まれただけ」と書きながら、実際には皇太子や学友との交流を深く、幅広く育みます。

民主主義についても語り、「科学者、不可知論者をもって自認しておられる殿下」と宗教についても話し合った、と書いています。

皇太子とその姉弟や学友も含めて、休みの間も軽井沢や御用邸で親しく遊び・教え、時に外国人の少年少女も招いて夫人宅でパーティをやり、宝探し、トランプ、モノポリーなどで遊ぶ。

f:id:ksen:20190718082550j:plain1949年12月20日には天皇一家との晩餐会に招かれて、一緒に「きよしこの夜」を英語で歌ったことまであるそうです。

皇室にとって、外国人とのこういう私的な交遊は、当時はおろかいまでも珍しいのではないでしょうか。

4.彼女は学習院での授業も、同じような手法で生徒に臨んだのだろうと思います。

1950年9月に辞任するに当って、

(1)最後の授業で、以下のような別れの挨拶をした、と書きます。

―「私はあなた方に、いつも自分自身でものを考えるように努めてほしいと思うのです。誰が言ったにしろ、聞いたことを全部信じこまないように。・・・調べないで人の意見に賛成しないように。

自分自身で真実を見出すように努めて下さい。ある問題の半面を伝える非常に強い意見を聞いたら、もう一方の意見を聞いて、自分自身はどう思うかを決めるようにして下さい。いまの時代にはあらゆる種類の宣伝が沢山行われています。そのあるものは真実ですが、あるものは真実ではありません。自分自身で真実を見出すことは、世界中の若い人たちが学ばなくてはならない非常に大切なことです」-

(70年経って、こういうアドバイスが(大人に対してだって)一層耳に痛い時代になってしまいましたね)。

(2)たくさんの送別会があったが、彼女はやはり学習院での高校1年の生徒たちが企

画してくれた送別会に頁を割きます。

―――「歌や朗読、劇やスピーチがあり、皇太子は「ヴェニスの商人」のアントーニオのセリフを読んだ。最後に、「蛍の光」を歌った。スコットランド風にみなで手をつなぎ、私は片手に殿下の手、片手に司会した生徒の手をとって、大きな部屋をぐるりとひとまわりした」。

そして「彼らを教えることは歓びだった。・・・私が彼らの年頃だったら、敵国から来た外国人の教師を、彼等が私に示した半分ほどの協力と心の優しさで迎えることができただろうかと疑う」。こういう自らに対する謙虚さがヴァイニング夫人の魅力の1つだなと感じます。

f:id:ksen:20190825080848j:plain

f:id:ksen:20190825081047j:plain

(3)出発はデンマークの貨物船で、「船客は12名で乗り心地のよい船だった」。皇太子

と義宮が「最後のお別れの言葉を述べに、船までおいで下さった」。

新聞社の写真班が何か日本語で叫んでいる。「もう一度、私たちに握手してくださいと言っているのですよ」と皇太子が40人ほどの写真班の要望を英語で通訳してくれて、「私たちは笑いながら握手の無言劇をもう一度くりかえした・・・」。

(4)そして4年間を振り返っての彼女の感慨です。

――「私が見たものは異常なことどもであった。

私は打ちのめされ、途方にくれた国民が灰の中から起ちあがり、歴史にほとんど前例を見ない方向転換を行って、新しい方向にむかって、決意と力にみちて、新しい生活の第一歩を踏み出す姿を見た。私は戦争の余燼がなおくすぶっている占領下の土壌から、昨日の仇敵同志の間に友情がふしぎにも芽生えてくるのを見た。私は世界の最も秘められた宮廷の、巨大な、鉄鋲(てつびょう)を打った扉が、一人の外国人を責任の重い地位に招じ入れるために、大きくさっと開け放たれるのを見た。

私は,丸々とした小さな少年が沈着な青年に成長するのを見た・・・」。

(5)しかし、この年1950年の6月には朝鮮戦争が始まりました。

根っからの平和主義者であるヴァイニング夫人が、こういう世界の情勢と日本の行く末に深い憂慮を覚えたことも、本書の最後は伝えます。

――「私はささやかながら平和のために寄与しようと思って日本へ来た。ところがやがて、朝鮮は戦火の中に包まれて、火は次にどこへ拡がるか予断をゆるさぬ形勢になった。

・・・日本の新しい民主主義がまさに押しつぶされる危険に遭遇しているのを見た。あれほど立派な好ましいものに思われた和解の精神そのものが、日本をアメリカの軍事的同盟国として、戦争にまきこむかも知れなかった」。

f:id:ksen:20190818103128j:plain

➜70年後のいま世界はいい方向に向かっているのだろうか、そしてこんな風に平和を願い、憂い、そして発言するアメリカ人が(日本人も)果たしているだろうか、と読み終わりながら考えました。

新聞は、「8月2日にロシアとの中距離核戦力(INF)廃棄条約が失効したばかりのアメリカは、19日に地上発射型の中距離ミサイル実験を行った」と報じていました。

 

 

 

 

 

 

 

エリザベス・ヴァイニング著『皇太子の窓』を読む

1.前回はフェイスブックで、京都から2人の方のコメントを頂きました。

飯島さんが、「昨年チェコで、宝塚歌劇を紹介するプロジェクトの手伝いをした。「禎子と千羽鶴」を音楽劇として地元の子ども達と共演した。チェコは歴史に耐えた経験から平和への思いが強い国民と聞いた」と書いて下さいました。

宝塚歌劇は、いろいろな企画に取り組んでいるのですね。いい話だなと思いました。

岡村さんからは長野の良い話を2つ伺いました。1つは茅野出身の亡き奥様の墓参に高齢の小学校の先生がはるばる来てくれた話、もう1つは京都に修学旅行に来る生徒で、長野がいちばん行儀がいい」という観光バスの運転手から聞いた話、嬉しく伺いました。

f:id:ksen:20190809124635j:plain2.ところでこの夏もいろいろ本を読んでいますが、その中に『皇太子の窓』(エリザベス・ヴァイニング著、小泉一郎訳、文藝春秋新社)があり、今回はこの紹介を致します。

原著は1952年、邦訳はその翌年という古い本ですが、たまたま当地蓼科で一緒に畑をやっている年下の友人が貸してくれて、初めてでしたがとても面白く読みました。

たまたま彼と雑談をしていて、本人が学習院の卒業、父親がそこの英語の先生でヴァイニング夫人の同僚だったという話が出て、私の母も昭和の初めの大昔ですが女子学習院で学んだので、話題が広がりました。

彼の父親も本書に名前が出ているというので、貸してくれたものです。

f:id:ksen:20190718082520j:plain3.ヴァイニング夫人は1902年生まれ、大学院で図書館学を専攻し、37年大学教授の夫と死別後、児童文学の作家活動に入り十数冊の著書がある。

皇太子殿下明仁(現上皇)の家庭教師として1946年10月に来日、皇太子が学習院の中等科・高等科時代の50年12月までの4年間、英語の個人教授と学習院での英語教師を兼務した。

スコットランド系のアメリカ人。敬虔なフレンド派(クェーカー)のクリスチャン。同教派は平和主義の信条を守り、「良心的兵役拒否」でも知られる。1956年の映画『友情ある説得』(『ローマの休日』のウィリアム・ワイラー監督)では、ゲイリー・クーパー扮するクェーカーの牧師が南北戦争に志願する息子の行動に悩む物語だった。

バイニング夫人も1969年にベトナム戦争反対デモの座り込みで逮捕された経験がある。

帰国してからも皇太子との交流は続き、1959年の現美智子上皇妃との結婚式には外国人としてただ一人招待されたそうです。

1999年97歳で死去。

―――ということで、以下は本書を読んだ感想です。

f:id:ksen:20190809112524j:plain4.何と言っても、私のような庶民の伺い知れない雲の上の世界についての貴重な記録です。

しかも敗戦直後の、まだ東京に焼け野原が広がる時代に、アメリカ人の先生と日本人の生徒であるプリンスやその他皇室の面々との公私にわたる幅広い・暖かな触れ合いが展開されます。

そして先生は生徒である皇太子に徐々に敬愛を抱き、「私の殿下びいきは、よく冗談にみんなの口の端にのぼっていた」と書くまでになる。

5.なぜ実現に至ったかですが、これが皇太子の父昭和天皇のアイディアであり、当時のマッカーサー以下GHQも日本の政府や宮内庁も全く知らなかったそうで、この点が面白い。即ち、1946年春、アメリカの教育使節団が来日し、団長が天皇に面談したとき、「皇太子のためにアメリカ人の家庭教師を世話してもらえるか?」と直接訊かれた。(後で知ったマッカーサーでさえこれを聞いて驚いた、と夫人に直接語った)。

ヴァイニング夫人は「あなたを推薦してもよいか?」と訊かれて、最初は気乗りがしなかった。しかし「一方で、平和と和解のために献身したいという願いも強かった。日本が新憲法において戦争を放棄したことは、私には極めて意義深いことに思われた」と書く彼女は最終的にイエスと答える、その結果、2人の候補者が選ばれ、天皇自らが彼女を選んだ。

6.なかなか興味ある話ですが、天皇には戦争への悔いもあったでしょうし、「変わり身が早い」というか、これからはアメリカと民主主義が大事だという判断が働いたのかもしれない。

しかし、それだけではなく、昭和天皇が若いときからキリスト教に関心をもち、接する機会もあり、聖書の勉強もしていたという話は、今回関連して読んだ原武史の著書から知りました。(『昭和天皇岩波新書など)。

7.そしてヴァイニング夫人は期待に応えて天皇や皇太子に強い・良い印象を与えます。

当初は1年間だけの週1回の英語の個人教授(と学習院での授業)の約束でした。

ところが毎年延長を懇請されて結局4年続きます。

f:id:ksen:20190718082539j:plain個人教授も週2回~3回に増え(学習院での授業を入れて週3~4回会うことになる)、うち1回は彼女のアイディアで学友3人が加わるようになり、さらに皇太子だけでなく義宮も内親王も、三笠宮や皇后までが英語の授業を受けるようになります。夏休みなども軽井沢や御用邸で、勉強や交流を続けます。

もちろん授業はすべて英語で、決められたテキストではなく彼女が自分で考えたやり方と教材をもとに、基本的には自由な話あいや意見の発表を大切にします。

英語の授業を通して、民主主義、国連、教育、憲法、宗教といったさまざまな問題について語ります。皇太子や3人と一緒に聖書を読み、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読み、リーンカーンのゲティスバーグの演説を暗記します。

後になって昭和天皇は、「私に成功したことがあるとすれば、それはヴァイニング夫人を招へいしたことだ」とある女官に語ったそうです。(本書137頁)

少し脱線すると、三笠宮はヴァイニング夫人の家に週1回英語を習いに来るのですが、「自分で小さな日本製の車を運転して来たり、省線(いまのJR)の駅から歩いて来られたりした」と彼女は書いています。いまはどうでしょう?そんなことが可能でしょうか?時代が貧しく、余裕がなかったせいもあるかもしれませんが、何だか戦争直後の方が皇族といえども自由に動いていたような印象を持ちました。

8.――と、こんな具合に本書を紹介していると、とても紙数が足りません。

今回はヴァイニング夫人が来日してすぐに、学習院中等科を訪問したときのことを紹介して終わりにします。

彼女は1946年10月1日アメリカを発って船で16日横浜港に到着。

翌日皇居を訪問、天皇や皇太子に会う。

翌々日は早速、学習院中等科を訪問、授業参観をして、初めに級長が「礼」の一言で皆がお辞儀をする光景を見て、「私のクラスではやらない」と決めます。

そのあと校庭で先生と皇太子を含む生徒全員に紹介されます。

学校からは「紹介するだけ」と言われるが、彼女は自分から「挨拶をしたい」と言い、(通訳付きの英語で)以下のように語ります。(本書第4章39頁から)。

f:id:ksen:20190815083734j:plain「私が日本へ参った第一の理由は、日本が新憲法で国策遂行の具としての戦争を放棄したからです。他の国々も、日本の後からついてゆかねばなりません。日本がその苦難と敗北の中から、新しい力と夢を得て、平和への道において世界を指導し得るようになることを、私は信じて疑いません。

(そして)あなた方若い人々こそ、それを成就する責任をもっているのです~~~」

――この挨拶を詳しく紹介したあと彼女は、私の喋ったことを生徒たちがどこまで記憶にとどめてくれたかどうかは分からない。「しかし、4年後(1950年)に私が日本を去るとき、生徒の中の何人かが別れの手紙をくれて、私がその朝述べた事柄に触れていた」

と付け加えています。

――その時から70年経ったいま、人間という動物は相変わらず軍拡に血道をあげている・・・・ヴァイニング夫人だったらこういう現実を見て何を言うでしょうか?

 

24回茅野市平和祈念式典とジョン・レノンの「イマジン」

f:id:ksen:20190803145542j:plain

1.先週の日曜日には、借りている畑に行ってじゃがいもを掘りました。

今年は畝づくりと植え付けの時に体調を崩して娘夫婦に全て任せ、収穫時だけ老人が横取りしました.

そんなことで量も減らし、おまけに気候不順もあって小粒の物が多く収穫も例年の4分の1に過ぎません。しかし取り立ての味は同じで、夕食においしく頂きました。

月曜日には暑い東京に日帰り。

翌日は6日で、例年通り第24回茅野市平和祈念式に家人と二人で出席。

あとは当地や東京から来た友人に会ってお喋りを楽しみました。

2.茅野市1984年に「非核平和都市宣言」を行い、以後平和事業の1つとして毎年8月6日朝、公園の「平和の火」前で市民が中心になって行われる「平和祈念式」に協力しています。

平和への思いを作文にしてもらい、8名の中学生を広島に派遣しています。

式典は40人ほどが出席する地味な催しですが、高齢化が懸念される市民有志がそれでも熱心に準備し、企画し、実施しています。

f:id:ksen:20190809143255j:plain

 手作りの質素なプログラムには、「一万年の平和な時代を築いた縄文文化のふるさと茅野市。私たちの住むまちから非戦・非核平和を世界に向け発信」とあります。

派遣された中学生8人が語りかけ、広島・長崎両市長からのメッセージが読み上げられ、皆で黙とうをし、「平和の火」に花を捧げ、歌を三つ歌って終わります。

3.今年は、地元の永明小学校6年3部の生徒が先生と一緒に参加していました。

 こういう場で、老人ばかりだと寂しいですが、小学生、中高校生の姿を見るのはとても嬉しいです。

 担任の先生がたまたま家人の隣の席に座り、少し話もしました。

 プログラムに、彼が書いたのでしょう、この小学校の1年間の活動記録が載っていました。

(1)現上皇がかって、「忘れてはならない5つの日がある」として、1945年3月10日(東京大空襲)6月23日(沖縄戦終結)8月6日(広島原爆)同9日(長崎)同15日(戦争終結)をあげられた。

 5年生の夏、総合学習の時間で、まずこれら戦争の事実を知ることで、「平和」をテーマに学習を進めていくことを決めた。

(2)1年目には、

・この5つの日について各グループで調べた内容を発表した。

・生徒たちは、佐々木禎子(さだこ)さん(注、2歳の時広島で被爆し、12歳の1955年白血病で死去した。本人を初め同じ原爆病院の入院患者や多くの人が鶴を折って回復を願ったが叶わなかった。のち平和のシンボルとなり、オバマ元大統領の慰霊碑訪問の際も自ら折った鶴を平和祈念館に寄贈した)を思いながら千羽鶴を折り、皆で数か月をかけて千羽を作った。

(3)2年目には、

・「茅野市平和祈念式典」が行われる「原爆の火・平和の塔」のそうじ活動を続けた。

・「原爆の火(当時の広島の残り火)」を実際に茅野市に持ち帰った人の話を聞いた。

ユニセフがやっている「PEACE ORIZURU」の活動を学び、同じ活動を始めた。

(4)記録はこれらの活動を記載した上で、

「この学習を通して思うことは、“まず知ること”そして“考えること”。日本が過去に経験した戦争の悲劇を知った子どもたちは、その悲劇や悲惨さを少しでも多くの人に伝えようと頑張っています。子どもたちが願い、夢見る未来を支えることは、私たち大人の責任だと考えています」

と結びます。

(5)そして、1年経った6年生の1学期の終わりには、「50年前に平和への願いを込めて作られたジョン・レノンの「イマジン」を子どもたちと歌いました。世界中の人たちと同じ思いを共有できるようにと願い、英語で歌いました」と最後に書いてあります。

こういう小学校の先生がいるのだ、とちょっと胸が熱くなりました。

(と同時に、妙な忖度をする教育委員会や市役所の小役人が現れないといいなとも思いました)。

f:id:ksen:20190806095121j:plain(6)「イマジン」はご存知の方が多いでしょうが、ジョン・レノンの作詞作曲で(2017年に、作詞は夫人ヨーコ・オノとの共作と正式に認定された)、以下の詞が2回繰り返されます。

 ―You may say I'm a dreamer (僕のことを夢見る人と君はいうだろう)

  But I'm not the only one   (だけど、僕はひとりじゃない)

  I hope someday you'll join us  (いつかは君だって仲間になってほしいし)

  And the world will be as one  (そうなれば世界はひとつになるんだ)

https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2RAyHWyB01dpXUALQOJBtF7?p=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%B3&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8

 

4.この日、「松井広島市長は平和宣言で、日本が参加していない核兵器禁止条約への署名・批准を政府に促し、戦争で核兵器を使用された唯一の国として核廃絶へ一層の指導力を発揮するよう求めた」と新聞は報じました(信濃毎日)。

宣言の一部を引用します。

――2度の世界大戦を経験した私たちの先輩が、決して戦争を起こさない世界を目指したことを、私たちはいま一度思い出し・・・理想の世界を目指す必要があるのではないでしょうか。 

 特に、次代を担う戦争を知らない若い人にこのことを訴えたい。そして、そのためにも1945年8月6日を体験した被爆者の声を聴いてほしいのです。

 当時5歳だった女性は、こんな歌を詠んでます。「おかっぱの頭(づ)から流れる血しぶきに、妹抱(いだ)きて母は阿修羅(あしゅら)に」。

f:id:ksen:20190806084319j:plain

・・・そして、世界中の為政者は、市民社会が目指す理想に向けて、共に前進しなければなりません。そのためにも被爆地を訪れ、被爆者の声を聴き、平和記念資料館、追悼平和祈念館で犠牲者や遺族一人一人の人生に向き合っていただきたい。 

(略)今、広島市は、約7800の平和首長会議の加盟都市と一緒に、広く市民社会に「ヒロシマの心」を共有してもらうことにより、核廃絶に向かう為政者の行動を後押しする環境づくりに力を入れています。(略)

 こうした中、日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界の実現にさらに一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい・・・・・・ーー

5.核兵器禁止条約は昨年国連で122か国の賛成で採択されました。条約は50か国の批准で発効し、国際法となります。 

 現在批准国は24か国です。小さい国が多いですが、欧州ではオーストリアバチカン市国オセアニアではニュージーランド、アジアではタイ、ベトナムが含まれます。

松井市長の平和宣言のあった日、安倍首相は広島での記者会見で「「現実の安全保障の観点をふまえていない」と、署名・批准に否定的な考えを改めて表明」したとのこと。

f:id:ksen:20190806080116j:plain

この人は、ジョン・レノンが言う「dreamer」ではないのでしょう。

 そしてトランプを筆頭に世界中のたくさんの人が、日本人の多くも、松井市長を、そして9日の田上長崎市長の平和宣言を「夢見る人」の言と思うかもしれません。

 しかし、ジョン・レノンは「だけど僕はひとりじゃないんだ(But I am not the only one)」と歌います。

 そして、ドイツの社会学マックス・ウェーバーは、『職業としての政治』と題する、今からちょうど100年昔の1919年、大学生に向けた講演で、政治とは何かとともに政治家の倫理と責務について語り、最後にこう結んだのでした。

――「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が(略)どんなに愚かであり卑俗であっても断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず(デンノッホ)!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが、政治への「天職(ベルーフ)」をもつ」(脇圭平訳、岩波文庫)。

 

ボリス・ジョンソン、イートン校とキングズ・スカラー

1.ボリス・ジョンソンなる人物が予想通り、保守党員の投票により党首に選ばれ、英国首相になりました。今回は本件から思いだした雑件です。

f:id:ksen:20190731082313j:plain

2.エコノミスト誌7月27日号は論説を含めて3本の関連記事を載せました。

写真はジェット・コースターのてっぺんで、これから落ちていこうとするロンドンお馴染みの赤い2階建てバスを運転するボリスの姿。車体には「英国を再び偉大に!」のスローガン。

Brexitの行方がどうなるか予測はつきませんが、同誌は大いに懸念しています。

彼が10月末の期限までに「合意なき離脱」を強行すると広言していることについて、強行すれば英国は大混乱に陥るし、議会はかねてから反対であり、その結果、

不信任可決➜総選挙の可能性があり、保守党が勝つか負けるか?負ければ彼は史上最短の首相に終わるかもしれないとしています。

可決には与党議員の賛成票が必要だがこの造反はありうる、そんな事態になれば1940年のネヴィル・チェンバレン以来である。

ボリスは自らをチャーチルになぞらえ、彼の伝記も書いている。国難の時期の首相就任という点では似ているかもしれない、しかしむしろ、チェンバレンの運命をたどるかもしれないと同誌は言います。

チェンバレンはドイツへの宣戦布告後もヒトラーに対する宥和政策で議員の支持を失い、辞任に追い込まれ、チャーチルが登場し、労働党も入れた挙国一致内閣を率い、戦い抜きました。

但し、ボリスの思想信条は「カメレオン」のように変わり、首尾一貫性がなく、その点で他の根っからの「EU離脱論者」とは異なるので、何が起こるかは分からないとも書いています。彼がこの危機を収束してチャーチルのような大宰相になる可能性はあるのでしょうか?

f:id:ksen:20190801094801j:plain3.ボリス・ジョンソンはジャーナリストからロンドン市長を経て下院議員。頭はいいがいい加減で、個性(キャラクター)の強い、ある種の魅力ある人物ではあるようで、それだけに一部の人気も高い。アッパー・ミドル(上流中産階級)出身、イートンからオッックスフォード。

因みに、キャメロン、メイと3代続いてオックスフォード出で、キャメロンは同じくイートン、一方メイは大学は同じでも公立の進学校からで社会階層が違います。

この点は、3年前の国民投票の直後に、メディアが取り上げました。

https://ksen.hatenablog.com/entry/20160710/1468105730

その時のブログでも紹介しましたが、例えば2016年7月7日フィナンシャルタイムズは「Brexitパブリック・スクール卒の争い」、同じ日のNY TIMESは、「英国の政治はいまだにエリート校卒業生が牛耳る」と題する記事でともに、「今回の国民投票は、単なる非エリートのエリートに対する反乱ではなく、“一部のエリートに指導された” 非エリートの叛乱だった」と分析しました。

4とくにボリス・ジョンソンの場合は、イートンだけではなく,「王の特待生(King’s Scholar)」とよばれる特別奨学生でした。入学時の成績が抜群だったということです。

f:id:ksen:20190801094834j:plain(1)イートンは英国のパブリック・スクールの中でも自他ともに許すNo.1です。ウィンザー城のあるウインザーの町とテムズ川を隔てた対岸にあります。

15世紀半ばにヘンリー6世によって創設され、いまだに全寮制の男子校で13から18歳までの約1500人が在籍します。学費は寮費も含めて(4年前に聞いた話では)年に3万5千ポンドと滅茶苦茶に高い。制服だけで2千ポンドする。上級生になるとテイル(Tail)と呼ばれる長い上着が要る。学内だけなく学外に出るときも着用が義務。

(2)その代わり全体の約2割が何らかの奨学金を受けている。

その中でも、全く別格・特別待遇の奨学生が「キングズ・スカラーKS、王の特待生」です。毎年約15名(全体で70名強)が親の経済状況に関係なく特別の試験で選抜されます。

費用は全額免除、学内の個室を与えられ(Oppidan(町に住む者というラテン語から)と呼ばれる普通の学生は町中の相部屋に住む)、制服の上に特別のガウンを着てひと目でその存在が分かり、姓名の終わりにはKSの称号がつきます。教員との食事会に招かれるなどの特典があります。

(3)もともとはヘンリー6世が学校を作ったのは貧しいが優秀な少年に教育を与える目的で、この時の該当生徒数が70名だったので、それをいまも踏襲してるそうです。

KSの卒業生の殆どがオックスブリッジに進学する由。

過去のイートンKS卒業者の中には3人の首相(ボリスは3人目)、J.M.ケインズ、ハックスリー兄弟(弟は作家のオルダス)、『動物農場』や『1984年』の著者ジョージ・オーウェルなどがいます。

5.以上書いた情報はほとんどが耳学問で、情報源は2人です。

(1)1人は、英国勤務時代に親しくなった友人の息子さんが何とこのイートンKSです。

友人は某日本企業に勤務していましたが、一人息子が公立校から推薦されて思いもかけずイートンを受けろと言われ、おまけにKSに選抜されました。夫婦はそのため英国に残留することを決め、会社も退職しました。

(2)私たち夫婦は在英中に親しくなりたびたび一緒に週末旅行もし、帰国してからも彼らの一時帰国の度に会って温泉旅行をしたりしました。息子さんのイートンでの暮らしを何度も聞き、学校にも案内してもらいました。

(3)彼らはまだロンドン郊外に住み、息子さんは英国人と結婚してコンピュータの仕事をしています。

ただ彼は、イートンでの学校生活をあまり話しません。メイさんの前の首相キャメロンが同級生だったとは聞きました。

f:id:ksen:20190804081121j:plainイートン出だいうことをあまり喋るな」という校風があるそうで、どうしても自慢になるからでしょうか。これが英国エリートのスノッブ教育法でしょうか。

それと半分推測もありますが、結構しんどい5年間だったのではないかと思います。

40年も昔に日本人という異例な存在で特待生、しかも普通のサラリーマンの息子で、キャメロンやボリスのような同窓生とは言葉遣いを含む文化も暮らしも価値観も違う。辛いこともあったでしょう。ひそかな差別もあったかもしれない。

これは父親に聞いたのですが、KSは寮費も学費も全額免除される。ところが富裕な家庭の場合、親は同額の寄付を学校にするという風習が何となくあるらしい。

父親は息子の在学中にはそんなことを知らず、「仮に知っていても日本円でウン千万円の寄付なんて出せるわけがない」と言っていました。

そういう、文化と伝統の保守性が、「階級」を含めて英国にはあるのでしょう。

(もっとも医学部の寄付など、日本には日本の厭らしさがあるかもしれませんが)。

6.もう1人の情報源は、日本人の女性で彼女は、ロンドンの北リンカンシャ州のマナーハウスに住む「アッパー・クラス(上流階級)」の男性と結婚して住んでいます。

f:id:ksen:20150913164214j:plain4年前に娘夫婦と一緒に2泊させて頂き、夕食会も開いてくれました。

その際に英国の階級やイートンのことなどいろいろ教えてもらいました。「アッパー・クラス」と「アッパー・ミドル」との違いについて、「厳密な定義はないが・・・」という前提で説明を受けました。

https://ksen.hatenablog.com/entry/20151004/1443909887

そのこともブログに載せましたが、彼らは68室もある大きなマナーハウス暮らしとはいえ、日常生活はごく質素でした。使用人はいません。家事は夫婦でやります。大工仕事と薪をつくるのは旦那の仕事。

BREXIT国民投票の少し前でしたが、パブリック・スクールからオックスフォードを出た物静かなご主人が、「離脱」の熱心な支持者だったので驚いたことをいまも記憶しています。

 

 

 

 

再び「保守主義の危機」とリベラルであること

1.蓼科高原も先週火曜日ぐらいから晴れ間が多く、八ヶ岳がきれいに見えました。と思っていたら、週末は台風本土上陸の情報。もっとも当地は曇り空と少しの雨ですみました。

f:id:ksen:20180903152557j:plain

f:id:ksen:20190727112430j:plain欧州は記録的な猛暑だそうで、ロンドンもパリほどではないけど観測史上最高の39度、普通どこの家も冷房などないのでたいへん(私が昔住んだ市内のフラットももちろん冷房などなかった)、娘の一家は赤ん坊もいるので心配です。

2.前回の「保守主義」の危機については、ブログも入れて3人の方がシェアして下さり、メールも入れて9人からコメントを頂きました。改めてお礼を申し上げます。

忙しい皆さんの関心は他に移っているでしょうが、暇な老人は再度取り上げたいと思います。

エコノミスト誌の論述は全文を紹介したいぐらいですが、かなり長いのでそうも行きません。以下、多少繰り返しもありますが、印象に残ったところを補足します。

(1)今や、明らかに新右翼が「啓蒙主義保守主義Enlightenment conservatism)」

に勝利を収めつつある。これは本誌のような「古典的リベラル」にとって嘆かわしい事態である。

(2)アメリカを始め、多くの先進国で、保守党が反動的なナショナリズムに乗っ取られ

ている。さらに深刻なのは、政党(アメリカでは共和党が保守、民主党がリベラル)だけでなく、保守という政治思想そのものが脅威にさらされていることである。

(日本を具体名ではあげていませんが、「多く」の中に入れているでしょう)。

3.このように、リベラルの同誌からすれば「対岸の火事」と言ってもいい「保守の危機」に対して、あえて危機感を表明しています。

これに対して「対岸」にいる「保守」そのものはどう考えているのでしょうか?

まず彼等自身が危機感を感じ、発言し、行動で示してほしいものです。

アメリカでは、トランプが非白人の4人の女性民主党下院議員に対して「自分の国に帰れ」という信じられない発言をし、今月17日民主党議員が上程し批判決議が可決されました。しかしこれに賛同した共和党議員はたった4人でした。危機感を感じているとは思えませんね。言うまでもなく日本は危機感より、「忖度」する国です。

4.そこで、今回は保守とリベラルについても、もう少し考えてみたいと思います。

この両者がどう違うかについて述べて、にも拘わらずしばしば同盟相手(allies)でもある、だからこそ現状を憂いているのだという同誌の指摘は前回も紹介しました。

両者の違いについて、同誌はこうも言います。「保守は郷愁(ノスタルジア)に傾き、無秩序を恐れる。リベラルは、食べ物から外国旅行に至るまで、新しい経験に対してオープンである」。

f:id:ksen:20190718082657j:plain5.「食べ物から外国旅行に至るまでオープン」という表現が面白かったので、私の知っているリベラルって具体的にどういう人だろうと考えてみたのですが、その前に、歴史的にリベラルの代表と言われているJ.S.ミルとオルテガ・イ・ガセットについて述べます。

そもそも、保守とは、リベラルとは何か?について理屈で考えると、水掛論になり勝ちです。

その理由の(1)は、思想としての保守もリベラルも、歴史とともにかなり変わってきていること。だからこそエコノミスト誌は、自らを「古典的リベラル」、危機にあるのは「啓蒙主義保守主義」と形容詞をつけて明確にして論じます。

理由の(2)は、両者とも思想や哲学だけではなく、個々人の心性・気質・態度の表れでも

あること。従ってどんな人間も両者を合わせ持つのが普通で、100%保守も100%リベラルもいない(リバタリアンを別にすれば伝統や秩序を無視するリベラルもいないし、新右翼を別にすれば寛容を否定する保守もいない)、にあると思います。

6.それなら、「あの人はリベラルだ、保守だ」をどうやって判断するか?

そもそも論ではなく、あくまで個々の問題や事例について、

その人の(1)言説や(2)行動から判断するのが大事ではないでしょうか。

例えば、(1)であれば、オルテガはスペインの政治思想家で著書『大衆の反逆』(1930)は20世紀を代表する書物と言われますが、彼を「保守主義者」と呼ぶ人もいます。

リベラルは、よく言えば「寛容」、悪く言えば「いい加減」ですから、別に彼がどちらでも気にしません。

しかし同書に私の好きなオルテガの以下の言葉があり、これだけで私には十分です。

リベラリズムとは、至高の寛容さのことである(英訳:”Liberalism is,・・・, the supreme form of generosity”)」「リベラリズムは、多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かって地球上できかれた最も気高い叫び(the noblest cry that has ever resounded in this planet )なのである」。

f:id:ksen:20190728072652j:plain

f:id:ksen:20190306072513j:plain例えば(2)であれば、『自由論』を書き、明治の初めに日本でも紹介されて自由民権運動に影響を与えた19世紀の英国の思想家J.S.ミルについて、「その主張は保守主義と呼んでいいのではないか」という反論を今回、メールで頂きました。

『自由論』をどう読むかはそれこそ各人の自由ですが、私が大事に思うのは、彼が1860年代に、女性参政権を主張し、下院議員になって行動したという事実です。英国で認められる50年以上も前、まだごく少数の意見だった頃にです。

このように、そもそも論で「保守とは」「リベラルとは」を定義するのではなく、個別の局面でその人が、いかに発言し、行動するかで判断することが大事ではないか、と思う者です。

7.そこで同誌が言う「リベラルは食べ物から外国旅行に至るまで新しい経験に対してオープンである」が面白かったので、最後に、勝手に実名を出してまことに恐縮ですが、フェイスブックの友人、木全氏・岡村氏・下前氏の3人を「私が考えるリベラル」として、独断で紹介したいと思います。

(1)木全氏はアメリカに20年住み商社マンからシカゴで事業を起こし(いまは息子さんが引き継いでいる)、それだけでも「保守」とは思えませんが、帰国して毎年のように外国旅行を続けています。若者に交じって国際交流を兼ねた安い船の旅(NGOピースボート)に始まり、キューバベトナムミャンマーなどを毎年訪れる。ほぼ同年令の高齢であるにも拘わらず、好奇心旺盛。

(2)岡村氏は、若いときに海外を放浪、紛争地域や安全でない辺鄙な場所も含めてバックパッカーとして「地球を歩き」まわり、地元の人と交流し、一緒にキャンプもし、豪州ではレストランで皿洗いしたり映画にも出たこともある様々な逸話の持主。

いまは生まれ育った京都祇園町の顔役ですが、写真のように毎朝バイクに乗って颯爽と

「イノダ」に現れます。

f:id:ksen:20190513084704j:plain(3)下前氏は、同じく生粋の京都人で、毎日ブログを書いている「先生」と呼ぶ人も

多い博学居士。

本職は理髪屋で70 歳を越えていまも現役ですが、ここには外国人の旅行客がよく散髪に訪れ、SNSの口コミで新しい客も増えて、ブログを拝見すると、(失礼ながら)片言の英語で見事に一期一会の交流をしている、まさに「オープンな好奇心」の持主です。バスで知り合った京都在住のウクライナの女性とも会話を交わし、料理を教えたりしています。大叔母が明治以降最初の国際結婚といわれるモルガン財閥の御曹司と結婚したモルガンお雪で、その国際性が彼のDNAにも引き継がれているのかもしれません。

(4)上記3氏とも、ご自分を「リベラル」とは夢にも思っていないかもしれません。思想信条のレベルでは必ずしもリベラルではないかもしれません。

しかし、エコノミスト誌の定義に従えば少なくとも心性・気質では立派なリベラルではないでしょうか。

 

 

英国エコノミスト誌が語る「保守主義の危機」

1.先週は日帰りで東京に行きました。雨が強く湿気もありました。参議院選期日前投票を済ませ、夕食の用事まで時間があったので、駒場の東大図書館で時間をつぶしました。

図書館で7月6~12日号のエコノミスト誌を手に取りました。表紙も、論説トップの見出しも「世界的危機にある保守主義(The global crisis in conservatism)」です。

今回は少し硬いですが、この紹介です。f:id:ksen:20190712113712j:plain2.まず、175年前の発刊以来リベラルを標榜する同誌が、なぜこの時期に「保守主義」擁護の論陣を張ったか?ですが、

(1)これが、プーチンの発言に触発されたものであることを明示します。

ロシアのプーチン大統領は、6月28日大阪でのG20サミットの前日クレムリンで英国フィナンシャル・タイムズ紙のインタビューに応じ、「人々が移民や開かれた国境や多文化主義に背を向けていることから明らかなように、“リベラルなアイディア”は古臭くなった」と語った、と報じられました。

(2)直ちに、メルケルマクロンなど欧州首脳の猛反発をかいましたが(トランプも「“自由”民主党」の総裁も無言でしたが)、エコノミスト誌もこの言動を取り上げます。

そして、古典的リベラリズムに立つ本誌がプーチンの発言に同意できないのは当然だが、

(3)実は問題はそこにあるよりも、プーチンが攻撃する相手を間違えていることにあるのだと指摘します。

即ち、いま西欧でもっとも脅威にさらされているのは(プーチンが攻撃しているのも)リベラリズム以上に保守主義なのであるとして、

(4)「新右翼(The new right、同誌は「反動的なナショナリズム」とも言いかえます)とは、保守主義の進化ではなく、むしろその否定である」と指摘します。

以下同誌記事の補足です。

f:id:ksen:20190716135144j:plain3.保守主義は、哲学というより、気質であり、心性である。

英国の政治学マイケル・オークショット(1901~90)は言う、「保守的であるとは、

(1)馴染みのないものより、慣れ親しんだものへの

(2)試されていないことより、試されたことへの、

(3)ミステリーよりも事実への、

(4)見知らぬ遠くの世界より、身近なものへの、

愛着である」。

リベラルが、社会秩序は個人の自由な発想と同時的に存在すべきものと考えるのに対して、保守は、家族、教会、伝統、地域の繋がりなどの社会秩序が先にあって、そのもとで自由が保障されると考える。

4.しかし、今の新右翼はこのような保守の「伝統」に不満であり憤慨しており、否定し、破壊しようとしている。

(1)(古典的な)保守は実際的・現実的であるが、新右翼は熱狂的・観念的、真実に無関心であり、だからこそ危険なのだ。

(2)保守は理性的かつ賢明であり、変化に慎重で急がないが、新右翼は気軽に改革に踏み切る。

(3)保守は、各人の理性と個性を大切にするから、カリスマや個人崇拝には慎重である。しかし新右翼ポピュリズムと容易に結びつく。

(4) この二つがいかに異なる心性か、(後者を代表する)Brexitに踏み切るジョンソンやNATO脱退を脅かすトランプの言動をみるがいい。 (5)新右翼の台頭の背景には、保守が大事にしてきた教会や地域や組合や家族などの結びつきの衰退がある。

しかし同時に、人口構成の変化が彼らに逆風となっていることも事実である。英米であれば、新右翼の支持者は主として低学歴の白人の高齢者層であるが、彼らは少数派になりつつある。

f:id:ksen:20190716133913j:plain5.現時点では(たしかにプーチンが誇るように)、新右翼が保守に勝利を収めつつあり、本誌のような古典的リベラルにとってまことに嘆かわしい事態である。

なぜなら、保守とリベラルとは多くの事柄で意見を異にするが、

両者はしばしば同志でもあり、連携もし、それぞれの良いところを取り入れる。

保守はときに、リベラルの理想に走り過ぎる熱を冷ます役割を果たし、

他方でリベラルは、現状に自己満足しがちな保守の尻を叩く・・・・

6.ところが、新右翼は、保守を否定・破壊し、保守そのものを変質させ、同時にリベラルを攻撃する。

その結果、もっとも危険なのは、右からも左からも穏健派が追い出され、保守とリベラルの両者が極端に向かうことである・・・

として、英国の労働党アメリカの民主党新右翼への対抗上、ますます左に向かっていることを大いに懸念しています。

過激ではない、穏健・中庸そして良識の基盤にのっかったエコノミスト誌のリベラルな姿勢を感じる論調だと思います。

7.最後に、6.で述べた、リベラルが対抗上過激になりつつある危険について、米大統領選における民主党の動きを懸念している同誌の見解を補足紹介します。

f:id:ksen:20190716133500j:plain(1)前々回のブログで、来年の米大統領選挙に立候補表明をしている民主党候補者のディベイトが6月下旬に実施されたこと、その結果、かなり過激な主張をする2人の女性の上院議員カマラ・ハリスとエリザベス・ウォーレンの支持率が上がったことを報告しました。

(2)「保守主義」を特集した同じ号でエコノミスト誌はこの事実を取り上げて、懸念を表明し、以下のように論じました。

(3)民主党が来年の大統領選挙で勝利するためには、少数(党員の約1割)だが大事な、民主党内の穏健派の支持を取り付ける必要がある。党は、好むと好まざるに拘わらず、(トランプに流れた)低学歴で高齢の白人層からの票も必要とするのだ。

(4)その点で、オバマ前大統領の巧妙な選挙戦略を参考にすべきである。

(5)オバマは、選挙運動を通して黒人を興奮させると同時に、白人に自らの穏健さを訴えた。人種を超えた国民の連帯を呼びかけることで勝利を得た。

2008年3月に彼が行ったもっとも印象的なスピーチがある。

そこで、彼は、「アメリカ人はいま一つにならなければならない。黒人でも白人でもラティーノでもアジア系でもなく、私たち全てが一つになって直面している課題に立ち向かわねばならない」と述べたのだ・・・・・。

f:id:ksen:20190706120824j:plain(6)日本にも、「友・敵」ではなく、こういう訴えを口にする政治家がいないものでしょうか。世界が、トランプやジョンソンやプーチンのようなリーダーばかりになっていくのは悲しいものです。