『女性のいない民主主義』(前田健太郎、岩波新書)を読む

1.私たち老夫婦は、東京では相変わらず「stay home」ですが、短期間、長野県蓼科の古い田舎家には行ってきました。

 自宅だからそろそろ許されるかなと車で移動して、畑をいじったり本を読んだり静かに過ごしました。散歩で鹿にも会いましたが、例年以上に人を恐れず悠々と歩いていました。田植えが終わり、こなしや藤の花も咲き、新緑がみごとでした。

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2.ということで山奥で読み返した本を紹介します。

『女性のいない民主主義』(前田健太郎、岩波新書、2019年9月)。刊行直後から話題になりました。

 このところ、このブログで、タイム誌選出の「100年の100人の女性」の記事やNZの女性首相・ドイツのメルケルさんなどを紹介してきました。「日本でも女性にもっと活躍してほしい」という岡村さんのコメントにも共感し、紹介しました。

(1) 著者は1980年生まれの気鋭の政治学者、東大准教授。

 本書は、「いままでの政治学は「男性の政治学」に過ぎなかったのではないか」という反省に立って、「政治」「民主主義」「政策」「政治家」の4つのテーマを「ジェンダーの視点」で見直し、日本の政治状況が「男性優位」の構造になっている現状、その理由や問題点を鋭く指摘します。

➜「日本では男性の手に圧倒的に政治権力が集中している。このような国は、他にあまり見かけない。日本の民主主義は、いわば「女性のいない民主主義」である」。

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(2) ここで「ジェンダー」とは、「人間の生物学的な性別とは区別された社会的な性質、単純化すれば「男らしさ」「女らしさ」を意味する」。

「男は仕事、女は家庭」というのもジェンダー規範であり、政治に使われると「女性は政治に向かない」という偏見になる(ドイツやNZの例にも拘わらず)。

ジェンダーの視点」をあらゆる政治現象に取り入れることで、「世界の見方が違ってくる。どのような政治現象を見ても、「では、女性はどこにいて、何をしているのだろうか」「あの政治家が行った選択は、その人が男性だったことと関係があるのだろうか」などと問いかける習慣が身についてくる」。

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3.このような観点に立って、著者はまずは「政治」を定義することから始めます。

(1)「政治とは、公共の利益を目的とする活動である」

(2)「政治の基礎は、政治共同体の構成員による話合いである。公共の利益は、多様な視点を持つ人々によるコミュニケーションを通じて明らかになる」。

(3)「政治とは、権力を握る人々が、それ以外の人々に自らの意思を強制する行動である」・・・・と定義した上で、

いまの日本で果たして「男性と女性とが平等に話合う政治が行われているか?男性の手に政治権力が集中しているのではないか?結果として、女性が重要と考える争点や課題が国の政策として反映されにくいのではないか?」と問いかけます。

 

(4) その前提として、政治において大切な「話合い」における男性の言動を以下3つあげます。

・一方的な発言―男性の発言する時間は長くなり、女性は短くなる。

・発言の遮断―女性の発言が封じられる。

・発言の横取りー女性が何か言っても、自分の意見として認められないことがある。

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4「(このような)、男性が一方的に意見を言う状況は、常に生じるわけではない」。

(1) 女性が発言しやすい条件が整う場合もある。

 とくに男女比は重要な鍵を握る。組織の構成員の男女比が均等であれば、その組織が男性を優遇するわけではないというシグナルが伝わり、女性も男性と対等に議論に参加できるようになる。

 ここで著者は、「クリティカル・マス」理論を紹介し、この理論によれば「女性議員の数が一定の水準、例えば30%程度に到達して初めて、女性議員は本来の力を発揮することができるようになり、男性議員と対等に意見が言えるようになる」と言います(日本の衆議院議員の女性比率は、現状約10%)。

 

(2) 女性が発言しやすい条件を整えるには、女性の構成員を増やすことが大事で、そうなれば女性が重要と考える課題が「政治」の世界でまともに取り上げられるようになる。男女の意見が平等に反映される体制という意味での民主主義がもたらされる。

 

(3) こう説明した上で、諸外国では、選挙における候補者や議席を男性と女性とに一定の比率で割り当てるクオータ制が用いられている事例を具体的に紹介します。

 このような「議会における男女比の隔たりを是正する制度は、政治における男女の不平等の背後にあるジェンダー規範(女性は政治に向いていないという偏見)をも変化させる可能性を持っている」。

(4) 制度導入とともに重要なのは、やはり私たち有権者自身のジェンダー規範を見直すことです。「ジェンダー規範を内面化した有権者は、その候補者が男性であるというだけで、男性の候補者に投票する。女性候補者は、女性らしい振る舞いをすれば政治的な能力に欠けると言われ、政治家としてのリーダーシップを発揮しようとすれば、女性らしさに欠けると批判される」。

 

(5) さらに大事なのは、立候補者を増やすことだと、著者は言います。例えば、直近の2017年の総選挙でも、立候補した1180人のうち女性の候補者は209人にすぎない。女性が立候補しにくい社会環境に加えてここにもジェンダー規範が働いている。「女性が選挙に立候補しないことこそが、日本で女性議員が少ない決定的な原因なのである」。

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 5.以上は、本書の中身をほんの一部を紹介したに過ぎません。

(1)しかし、女性議員の少ない現状では、女性の意見が政治に反映されにくく、真の民主主主義ではない。その理由として、男性高齢者を中心とするジェンダー規範が強く働いているという指摘は重要だと思います。

(2)日本の政治については、利権や地盤や世襲の問題などどろどろした側面があるのでしょう。著者の言うきれいごとだけでは解決できない、という批判もありそうです。

しかし、他の諸外国で実現できて、日本でできないことはないのではないか。私たちの「ジェンダー規範」を少し変えていけば、未来は変わるのではないか・・・・と思わせる良書です。

(3)そもそも、男性の政治学者による、従来の政治学の反省に立った分析はまことに貴重だと思います。私のような素人でも読みながら、「女性と真面目に政治を話し合い、女性の視点から教えてもらおうとしたことがあるだろうか?」と自己反省する気持ちになりました。

 

ミネアポリスでの黒人男性死亡事件とタイム誌

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1.前回、アメリ最高裁の女性判事の話をしたところ、岡村さんが若い時に訪れた中米コスタリカのことを書いてくれました。

 1ヶ月の長い滞在でこの国に好感情を抱いたようです。2017年3月、国連が核兵器禁止条約を採択したときにコスタリカが議長国として取り仕切ったこと、日本は会議に欠席し、席には「あなたにここに居てほしかった」と書かれた折り鶴が置かれたことにも触れています。

平和憲法を有するコスタリカは「イラク戦争の時には有志連合に加わったが、大学生が憲法違反だと訴えて裁判所はこれを認め、彼の全面勝利となり、参加を断念した」。日本ではありえないでしょうが、こんなことが可能になる国なのですね。

「小国が唯一世界にリーダーシップを発揮できるのは、モラルにおいてなのです」というニュージーランドのアーダーン首相の言葉を思い出しました。

f:id:ksen:20200603104407j:plain2.他方で世界一の大国アメリカはと言うと、「モラル」にはほど遠い現状です。

「5月25日、ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性が白人警官にひざで首を組み敷かれた末に死亡する事件」やその後のデモの様子は、日本でも大きく報道されました。

 あらためて痛感するのは、黒人が射殺される事件がアメリカであまりにも多発することですが、最新号のタイム誌6月8日号が、「理性を欠いた恐怖によって起こされた二重の不正義」と題する記事を載せています。

記事が指摘するのは、事件に共通するのは、

(1)「些細な不正行為や疑わしい態度」が、殺害という「理性を欠いた恐怖(unreasonable fear)にかられた行動」を正当化する理由として使われること。

(2) 事件発生後も、自分自身は同じ行動を取らないまでも、加害者がそのような「恐怖」を抱いたことを理解し、許そうとする国民感情が少なからず存在すること。

の2つです。

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3.同誌は、数多くの同様の事件から、以下の3つを取り上げています。

(1) 「アメリカ史上最大の悲劇の1つ」と同誌が呼ぶ、2012年のトレイボーン・マーティン少年が殺害された事件。

 フロリダで無防備の少年が夜に住宅地を歩いていて、警備員に尋問されて争いになり、射殺された。翌年、州法に基づく裁判で、陪審は彼を正当防衛で無罪とし、これに怒った抗議デモが全国で起きた。

 この時は、当時のオバマ大統領が記者会見で「心情を吐露した」と話題になりました。

「黒人の若い男性であれば、いままでに以下のような経験を何度もしているだろう。

・デパートで、店の警備員から後を付けられたこと

・路上を歩いていたら、路肩に停めた車内に居た人が車をロックする「カチッ」という音を聞いたこと

・エレベーターに2人だけ乗り合わせたとき、同乗の女性がその間ずっとハンドバッグを握りしめていたこと。

そして私も、少年時代、何度も同じような経験をしている・・・・」と語りました。

(2)2017年には、ミネソタ州で後部ライトが壊れた車を停めさせて尋問中の警察官が、黒人を射殺。自分は許可を受けて銃を携帯していると警官に告げた。その上で、免許証を取ろうと手を伸ばしたところで、7発も撃たれた。この事件も裁判で無罪になった。

(3) 今年の2月には、ジョージア州で、ジョギング中の無防備の黒人男性が,もと警官とその息子の2人に射殺されたばかり。しかも2か月も逮捕されず、その後映像が出てきて起訴されて、目下審議中。被告は、ジョギング中の彼が立ちどまって建築中の家屋を眺めていたので「侵入するのではないか」と疑ったと供述している。

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(4)という具合に、殺害の動機が「些細な理由から生じた恐怖」によるものであり、しかもほとんどの裁判で陪審が無罪にする、という事実です。

 今回の事件も、殺害された黒人は無防備であり、スーパーで偽札を使ったのではないかという容疑で尋問中の出来事であり、正当防衛とはとても言えないと思います。しかし警官は「殺意はなかった」と主張するでしょうから、裁判で陪審がどう判断するか?

 (3)のジョージアの事件と同じく、どのような判決が出るかが気になります。事件発生直後のデモだけではなく、判決次第でまた再燃する可能性も十分ありえます。

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4.タイム誌の記事は、このような,黒人に対する潜在的な「理性を欠いた恐怖」とそれを「理解し・共感する」感情が一部のアメリカ人に存在するという「二重の不正義」を強く批判しています。しかし、どうしたらなくせるかについては、触れていません。

 なぜ、黒人に対してだけこのような「不正義」が存在するのか?

 ここには、普通の「人種差別」以上に根深い、奴隷制度にルーツを持つアメリカ社会の2つの「闇」があるのではないでしょうか?

1つはかって奴隷制度を持った国民としての「罪」の意識が、いまだに黒人に対する潜在的な「恐怖」につながるのではないかということ。

 もう1つは英国19世紀の小説家チャールズ・ディケンズが指摘した「残忍さ」です。

(1)1842年に、まだ20代のディケンズは妻と半年におよぶアメリカ訪問をした。

(2)当時アメリカでも彼の小説は大人気で、国を挙げての大歓迎を受けた。しかし彼は、この国に良い印象を持たなかった。最大の理由がまだ存続していた奴隷制度である。

帰国後書いた『アメリカ紀行』のまるまる1章を割いて、厳しく糾弾する。彼ら「所有者」が黒人奴隷をいかに残酷に扱うかを詳しく述べた上で、「このような悪の中で育った人間は、自分の怒りに火がつくとすぐに残忍な野蛮人になりさがる」と指摘する。

 180年経ったいまもこの国のどこかに、誰かに、ディケンズの指摘する「残忍さ」が遺伝子として伝わっているかもしれない、今回の事件でそんなことを感じました。

 アメリカ人に対するいささか厳しい見方かもしれません。若者や女性にはそういう意識はほとんど存在しないと思うし、今回の平和的なデモが新しい変化への一歩になることを期待したいです。

 そして、国会議員の中で、たった1人日米開戦に反対したジャネット・ランキンのような存在に期待しています。コスタリカも、過去に女性の大統領が選ばれています。アメリカはいつになるでしょうか?

 日本は奴隷制の歴史もなく、このような「負のDNA」は組み込まれていないと信じる者ですが、ヘイトスピーチの動きなどを知ると、潜在的な「罪の意識」がどこかに存在しているのではないかと考えたりします。

 

タイム誌「100年100人の女性」と2人のアメリカ最高裁判事

1.前回のブログで、朝の散歩で通る家に咲き誇る薔薇の花の写真を2枚載せたところ、友人が「気に入った」と漢詩を送ってくれました。

「紅白薔薇(そうび)花影新(あらた)なり」で始まり、

「杖を停め陶然とする一散人」で終わる七言絶句です。

 散人は「役に立たない人」の意味だと教えてくれました。最近ステッキをついての散歩が多いので、まさに自身の朝の光景だと思いました。

 苦労している人たちのことを思うと申し訳ないですが、私のような「散人」は「解除」になっても張り切ることなく、散歩以外は「stay home」を続けてせめて人に迷惑を掛けないようにしようと考えています。

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2.ということで、今回も、2か月前の「タイム誌」を眺めながら、しつこく「100年の100人の女性」の続きです。

(1)「女性の選出」だと、男性中心の「今年の人」よりも「社会活動家」が増え、人種や分野が多様化する、と前回書きました。

(2)「多様化」の例として、100人の中にアメリカ連邦最高裁の判事が2人選ばれており、今回はその紹介です。

 女性として初めての最高裁判事のサンドラ・デイ・オコーナー、2人目のルース・ベーダー・ギンズバーグ(RBG)です。

(3)アメリカの最高裁については、このブログで度々取り上げています。人種差別、妊娠中絶、銃規制、同性婚、言論・表現の自由、政府の施策(例えばオバマケアは2012年、5対4の僅差で合憲となった)などの重大な憲法判断がなされるため、判事が保守かリベラルかの構成によって、判決が大きく影響されます。

 アメリカ社会で彼らがいかに大きな役割を果たすか、彼らの任命や司法判断がいかに大きくメディアで取り上げられるか、日本といかに違うかを痛感します。日本で、最高裁判事の名前を言える人がいるでしょうか?重要な憲法判断があったでしょうか?

(4)因みに、いま9人の判事は、保守5人、リベラル4人の構成です。黒人(男性)1人、女性はギンズバーグクリントン大統領指名)、ソトマイヨール(オバマ指名)、ケイガン(同)で、この女性3人が何れもリベラルです。

 過去50年近く、リベラルが優勢でしたが、ここに来てトランプが判事指名のチャンスを得て保守2人を選び、逆転しました。

f:id:ksen:20200529114645j:plain3.まずは、「100年100人の女性」の中の2人の最高裁判事のうち、オコーナー判事についてです。

(1) 彼女はすでに退任しましたが、1981年レーガン大統領が指名しました。当初、保守派と見られていたが、就任後は「中道」で、しばしば最後の1票を決めるキャスティング・ボートを握る存在として注目されました。

(2)アメリカでは、妊娠中絶の禁止を定める州法が憲法に照らして合憲か違憲かが大問題で、長年にわたって社会を分断し、その激しい争い(殺人事件まで幾つも起きた)はいまも続いています。

 1970年代のリベラル優勢な最高裁で、「ロー対ウェイド」事件で初めて違憲とされて、妊娠中絶が認められました。

 これを覆すのが保守派の悲願で、オコーナー判事はその役割を期待され、彼女自身就任前は中絶反対の意見だったが、最高裁入り後は熟慮の末賛成に転じました。

(3) 他方で、2000年の、アメリカ大統領が史上初めて最高裁によって選ばれるという「ブッシュ対ゴア」事件では、彼女の賛成で5対4で保守派が多数意見となりました。

 この判決をゴアも「同意できないが、決定には従う」として受け入れ、結果的にブッシュの勝利が決まりました(注:大統領候補といえども、不服でも最高裁の決定に従う。このあたりは「法の支配」が徹底していて、立派なところです)。

 この判決には「司法が介入すべき問題か」という批判が、保守的な憲法学者からもでましたが、結果的にオコーナー判事が重要な役割を演じました。タイム誌は、その彼女を判決の年2000年の「今年の女性」に選びました。

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(4)因みに、このように時に右にも左にも行くオコーナー判事が、終始リベラルとともに守ってきたのが妊娠中絶を認める立場ですが、それがいま新たな訴訟事件として、保守派が優勢となった最高裁に上がっています。

 保守派多数の最高裁が長年の悲願である「ロー対ウェイド事件」を覆して、中絶を禁止する州法を合憲とする判決を出すか?これはアメリカ社会の大問題で、大きな注目を集めています。初夏にも判決が出ると予想されています。

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4.最後に、もう一人のルース・ベーダー・ギンズバーグ判事(RBG)です。

(1) 彼女は、1993年就任し、史上2人目の女性、初のユダヤ人の判事。現在も現役、86歳の最高齢で、筋金入りのリベラルです。

 当時女性の殆どいなかったコロンビア大学ロースクールを首席で卒業し、同大で教えたあと、「1973年アメリカ自由人権協会の法律顧問に就任、一貫して女性の権利向上に訴訟を通じて取り組む。・・・女性差別違憲とする画期的な判決多数を、最高裁からかちとった」(注:阿川尚之氏の『憲法で読むアメリカ現代史』からの引用ですが、こういう人物が最高裁の判事入りをする時代がアメリカにもあった、トランプ時代といかに違うか、を痛感します)。

(2) タイム誌は1996年の「今年の女性」にRBGを選びましたが、この年彼女は、名門ヴァージニア士官学校に女性が入学できないのは不当だとする訴えを認めて、違憲とする「多数意見」を書きました。

このときのRBGのコメントをタイム誌は以下、引用しています。

「この判断は女性の解放だけではなく、男性の解放にもつながるのです。なぜなら、もし女性が社会でも軍隊でも指導者になる機会が与えられたら、男性は女性から指示されることに抵抗を感じなくなることでしょう。」

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(3)アメリカの最高裁判事は本人が退任を申し出ない限り、終身です。    保守化する最高裁を懸念して、RBGに何とか引き続き職に留まってほしいというリベラル派の願いが強まっています。高齢でしかも手術で満身創痍といっていい彼女が引き続き頑張れるか、トランプ再選の行方とも絡んで注目されます。

 しかし彼女自身は未来に楽観的で、タイム誌に語った言葉によると、

「変化は、普通の人たちの草の根の努力から生まれるのです。そして男性もまたその努力に参加しなければならないのです」。

(4) 2018年には、彼女の活動を描くドキュマンタリー映画「RBG最強の85歳」が、伝記映画「ビリーブ・未来への大逆転」が作られました。前者はアカデミー賞の候補となり、日本でも公開されました。

http://www.finefilms.co.jp/rbg/

「検察庁法改正案反対意見書とタイム誌「今年の女性」」続き

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1.朝の散歩では見事に薔薇で飾られたお屋敷を眺め、眼の保養になりますが、そろそろ終わりでしょう、残念です。

 散歩しながら家人と、「お役人や新聞記者の言動は、私ども市井の庶民とは違うようだ」といった話もします。

 長年、友人夫婦3組6人で毎月1回、自宅回り持ちで麻雀をやっています。一銭も賭けず、女性が中心で男性が交代で1人入り、この間2人は飲んだり喋ったりします。

 この集まり、1月は我が家で実施。2月21日(金)は、老人でもあり早々と自粛・延期。以来、5月まで4カ月自粛を続け、誰ともお会いしていません。

 「新聞社がハイヤーを手配してくれるなら、集まってもいいよ」と冗談を言う老人もいます。

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2.ところで、スキャンダルはともかく、本来の検察庁法改正の問題を忘れてはいけないのではないでしょうか。

(1) この問題で、もと検事総長以下OB14人が反対の意見書を法務省に提出しました。

 東京新聞は全文を載せました。ルイ14世ジョン・ロックの名前を出して、ロッキード事件のときの対応にも触れています。

 ジョン・ロックは、『統治二論』(注:あるいは『市民政府論』)の「法が終わるところ、暴政が始まる」という言葉です。

 言うまでもなく、本書は古典的リベラリズムの教科書であり、アメリカの「独立宣言」(第3代大統領ジェファーソンが主に起草した)に大きな影響を与えました。

 「国家は国民の「生命・自由・財産」を守るために存在する。立法者がその信託を裏切った場合、国民は新たな立法部を設けることによってあらためて安全を確保する。国民はそうする権力を与えられているのである」と説く本書は、いわゆる「抵抗権」を認めた書として、フランス革命アメリカ独立革命を支える理念となりました。

(2)この「反対意見書」はかなりの長文ですが、

「上級検察官の役職定年延長」に関する23条5項が引用されています。「意見書」では「難解な条文であるが」と礼儀正しいですが、まあひどい悪文です。句点がない文章が延々と続きます。

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(3) ロッキード事件については、「意見書」が触れていることを少し長いですが以下に引用させてください。思いがこもっています。

―――「かってロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移の一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。

(略)当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず着手するという積極派や、(略)懐疑派、(略)悲観派が入り乱れていた。

 事件の第一報が掲載されてから13日目の(1976年)2月18日検察首脳会議が開かれ、当時の神谷尚男東京高検検事長(注:辞職前の黒川氏の役職)が、「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後二十年間国民の信頼を失う」と発言されるやロッキード世代は歓喜した。

 (略)この神谷氏の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、(略)特捜部が造船疑獄事件のように指揮権発動におびえることなく、のびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在であった・・・・――

(4) 私事ながら、大学時代の同級生にのち検事総長になった友人がいました。学生時代に入信したクリスチャンで真面目な正義感でした。3年前に死去しましたが、76年当時、まだ30代の彼は特捜部にいて堀田力氏のもとこの事件に携わりました。f:id:ksen:20200319110445j:plain

2. 前々回に取り上げた、米タイム誌選出「100年の100人の「今年の女性」」(最後に残った600人から選ばれた)について今回もフォローする紙数がなくなりました。

 最後に少し触れて終わりにしたいと思います。

 彼女達を、他方で1927年から始まった「今年の人(Person of the Year)」と比較して感じたのは以下のようなことです。

(1)「今年の人93人」の顔ぶれの方は9割以上が男性で、かつ政治家・行政官・軍人が半分以上を占める。

(2) 対して「今年の女性100人」はこれらは2割に過ぎず(前回紹介した緒方貞子さんも含まれます)、文化・芸術・スポーツや科学者など分野が広い。

とくに注目されるのは、「社会活動家」と呼んでいい人たちが、全体の4割近くを占める。(「今年の人」ではキング牧師など1割に満たない)。

例えば、・1920年に選ばれた、「アメリカでの女性参政権活動家」、

・1944年、人種差別と闘った黒人のレイシイ・テイラー

・1955年の、同じく人種差別に抗議したローザ・パークスに代表される「バスの乗客」

(3) 人種的にも多様であり、アジア、アフリカ等を含み、アメリカ人といっても黒人・アジア系・ヒスパニックの女性も含まれる。

――といった特徴でしょうか。

(4)このように、女性だけに絞って選ぶと、より多様化する、「社会活動家」が増えるという傾向は、興味深いです。

(5) さらに言えば、「政治家」であっても、前回紹介した日系アメリカ人3世のミンク議員のように、選ばれた理由は長年の人種・性差別への活動が評価されている訳で、広い意味で「社会活動家」と呼んでいいかもしれません。

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(6) その点から個人的には、1941年にジャネット・ランキンが選ばれてほしかったと思います。最終600人には入ったかもしれません。

 ジャネット・ランキンはモンタナ州選出の史上初の女性下院議員(共和党)で、もともと1920年の女性参政権運動で活躍した。

 1941年12月8日、真珠湾攻撃の翌日、米議会は対日宣戦布告を可決した。彼女は上下院を通して、たった一人反対票を投じた。

 全会一致で可決したい同僚の圧力にも屈しなかった。その結果、孤立無援となり、政治生命を絶たれたが、その後も新聞に「日本との戦争は正当化できない」と批判を続けた。生涯を通じて平和主義者として活動し、68年には87歳でベトナム戦争反対の大規模な抗議活動を首都ワシントンで指導した。

 多様な意見・少数意見はえてして女性から生まれるかもしれない。政治家や判事・検事にもっと女性が増えたらいいですね。

薔薇が咲いた。京都「ミンナソラノシタ」の話。

1.小さな庭に、昨年末に神代植物公園で買った薔薇の苗木が花をつけました。「プリンセス・ミチコ」です。神代植物公園もいま盛りでしょうが、閉鎖中です。

 前回は「タイム誌選出100年の100人」の話をしました。今回も続けるつもりでしたが、頂いたコメント優先で、タイム誌の続きは先送りです。

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2. 前回、100人の中に緒方貞子さんとミセス・タケモト・ミンクという日系アメリカ人3世を紹介しました。T・ミンクは戦争中にも拘わらず高校を総代で卒業し、アジア系女性で初の下院議員になりました。長年女性差別・人種差別と闘ってきました。

 飯島さんから、日系アメリカ人と言えば、戦争の最中にブロードウェイのミュージカルの主演をした2世の女性がいたと教えてもらいました。ソノ・オオサトさんの存在を私は知りませんでしたが、戦争中苦労したようです。「苗字を変えろ」という圧力もあったが屈せず、日本名を通した。

 何となく、同志社創始者新島襄の逸話を思い出しました。

 彼は、幕末、20歳のときに国禁を犯してアメリカに行き、親切な慈善家の援助を受けて10年滞在し、当時としては最高の教育を受けました。名門アマースト大学は、彼を卒業生の誇りとして、その肖像画をチャペルの祭壇右横の最高の場所に、同大卒業生で唯一の大統領クーリッジのと一緒に並べました。

 いまも飾ってあるかどうか知りませんが、私が訪れたのは10年以上昔です。案内してくれた某教授が、「太平洋戦争中、日本人の肖像画は取り外せ」という圧力があったが、大学は頑として圧力に負けず、飾り通した」という出来事を話してくれました。

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 3. 岡村さんは若い頃の海外放浪で出会った女性の話を書いてくださいました。  

 「ロスアンゼルスやハワイで日系アメリカ人の女性に親切にされたこと。台湾では、日本人観光客がレストランで子供が食べ残しているのを見て「親はどうして叱らないのだ」と言われた話。ベトナムでは、チョロン地区の市場に、枯葉剤の後遺症でしょう異常に大きな頭をした赤ん坊を抱き抱えた女性がたたずんで居た姿が未だに頭に浮かぶ。

 この頃考えるのですが、議員の比率がとても大事だと。差別と戦い続けた、敵国でミュージカルに主演した、戦争の為に不遇な身体を持つ子供を育て続けなければならない人生。苦労の無い人生など誰にも無いでしょうけど、女性の考え方と力が必要だと思うようになったのです」。

―――様々な国を旅して、そこで出会った女性との出会いが、その人の考え方に大きく影響するのだなと、読みながら感じました。

 女性の方が、差別や子育てなどの苦労を通して、生活の苦しみを身を持って感じることが多いと言えるのではないか、そういう経験がリーダーになったときに、「共感力」として生きてくるのではないでしょうか。

 3月18日のメルケル首相のスピーチは2か月経ってもいまだに世界の話題になりますが、「共感力」を評価する声が多いです。若い時代を東独で過ごして、自由を抑圧されることがどんなに辛いことか自分がいちばん知っているとして、基本的人権を制限する痛みと例外性を強調しました。そういう人間が言うのだから理解してほしいという訴えが多くの人の心を打ちました。生活に根差した女性だからこそ出てくるのかなと思いました。

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4. 最後になりますが、京都検定1級の藤野さんから教えて頂いて,非営利団体「ミンナソラノシタ」(「ミナソラ」と略)代表林リエさんが登場する映像を見ましたのでその報告です。京都時代、藤野さんに誘われてよくお会いしました。

 ソーシャルビジネスに取り組むボーダレス・ジャパンという会社が、社会貢献活動の団体を随時、ネットで紹介していて、5月11日(月)は林リエさんでした。最近すっかり定着した「Zoom」を使っての催しでした。

(1) 「ミナソラ」については過去のブログで何度も取り上げていますが、福島の幼稚園に通う子供たちを支援する活動を原発事故の直後から始めています。

(2) もともとは、東北大震災時に関西の自治体が東北支援の役割分担を決めて、京都が福島県担当になり、支援センターが出来た、その責任者を藤野さんが務めたことから支援の輪が始まりました。

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(3)  京都で避難生活を続ける母親たちの支援や、現地の幼稚園での支援など続けていますが、最近の目玉は「幼稚園留学」と銘打って、福島の子ども達を3週間京都に招いて京都の幼稚園で自由に外で遊んでもらうという活動です。

 福島ではいまも様々な問題があります。ほんの少数の子ども達でも、一時期京都に来て交流し、外で遊べることがどれだけ楽しい思い出か、「感謝している」と涙ながらに語る,映像に参加したお母さんもおられました。

(4)「ミナソラ」の活動が特徴的なのは、幼稚園に通う同年令の子ども達を持つ若い母親の間で、自然発生的に始まったボランティア活動であること、苦労はいまも多い、しかしめげずに明るく、仕事や子育ての忙しい日々を縫って手作りで、自分たちが出来ることを地道に継続していること、などでしょうか。「継続は力なり」です。

(5) 私も5年前になりますが、藤野さんに誘われて、林さんと一緒に福島県のある幼稚園を訪れたことがあります。その時は、外で遊べない子供たちのために室内用の砂場の砂を寄贈するという目的でした。子育てに悩むお母さんたちの悩みを聞く機会もありました。

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5. 当日の「Zoom」での林さんの発言で印象に残ったことです。

(1)原発のことも、福島のことも何も知らなかった私たち「ママ友」がこの活動を始めたのは、皆が母親だったことが大きいと思う。何よりも子供たちの未来を全力で守る社会であって欲しいという願いが、私たちの根底にある。

(2)周りの支援もたくさんあったが、いろいろと批判も頂いた。「当事者でもないのに、なんでそんなに熱心にやるのか」「暇な余裕のある人のやることではないか」

(「そう言われて、3人の子育てをしながら働くことも再開した」と答えていました。「元気人」ですね。)

(3)皆さんへの願いは、いまの福島を知ってほしいということ。私たちや子どもたちもこの活動を通して福島の母親や子供たちと繋がり、友達が増えた。それが嬉しい。

――やはり岡村さんの言う通り、この国は生活に根差した「女性の考え方と力がもっと必要だ」と共感しました。逆境にある子どもたちも生きやすい、そんな未来であってほしいです。

タイム誌が選出した「100年の100人の女性」

1.外食する機会がなくなり、食事は毎日自宅で(我が家は何年も前から一日二食です)、家人が用意してくれるのを頂き、感謝しています。

友人の中には奥様を先に亡くされた方もいて、たいへんだろうなと気になります。それとこの時期、シーツを夏用に替えて古いのを洗濯したり、季節の変化に合わせた家事もいろいろあります。

 散歩は、住宅地を歩くことが多くなりました。いままで気づかなかったのですが、花の美しい家々がけっこう目に入って、歩いて楽しいです。この時期は、薔薇、クレマチス、それにもちろんツツジが目につきます。

 我が家の前のお宅も鉢植えの花をきれいに飾っていますが、いまはペキュニアが満開です。立ち話をして、親切にも一鉢分けて頂きました。

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2.小さいながらも家庭を維持していくうえで、料理をはじめ家事の大切さ・大変さを再認識したのは、自粛生活のお陰かもしれません。

 もちろん夫婦双方の責任ではありますが、どうしても日本社会は女性に負担が大きくなってしまうのではないか。

 そういう状況の中でも、女性が社会的にも活躍していくことがより一層重要になっているのではないか、そのためには何が大事か。今回のCOVID-19の対応で、ドイツやNZや台湾など女性リーダーの活躍を見て、考えさせられたことです。

 ということで、今回はコロナの話題から外れて、「タイム誌」3月23日号が、過去100年間の「今年の女性100人」を選んだ特集を紹介したいと思います。

 「緒方貞子さんが選ばれた」という日本の報道を記憶されている方もおられるかもしれません。東京新聞の記事はこうあります。

――「毎年恒例の「今年の人」で知られる米誌タイムは、これまでの女性の活躍に光を当てる試みとして、過去100年分の「今年の女性」を発表した。

 1995年を代表する女性として、昨年10月に亡くなった元国連難民高等弁務官緒方貞子さんを選んだ。――

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3.因みに、同誌が毎年12月に選ぶ「今年の人(Person of the Year)」は、1927年から続く、同誌のいわば「ブランド」記事です。

 なぜ今回同誌が「今年の女性」をまとめて選出したかについて、編集部は以下の説明をしています。

(1)  今までの「今年の人」選出が男性に偏りすぎていたという反省がある。1927年から2014年までの88人のうち女性はたった7人しかいない。

(因みに、同誌は2013年にナンシー・ギブスが女性として初の編集長になり、以後15年にはメルケル首相、17年には「#Me too運動に立ち上がった女性」、19年には環境運動のグレタさんと、女性の選出が増えました)。

(2) そこで、今年は、1920年アメリカで女性参政権が認められて100周年を迎える記念すべき年であり、以来100年の「今年の女性」を選出することにした。最終リストに残ったのは600人である。

(3) 私たちはこの作業を通して、過去を振り返る機会を与えられ、歴史や社会を変える意義を再定義し、女性の果たした役割と影響力の大きさを再認識した。それは「発見」でもあり、「再発見」でもあった。

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4.100人のリストを読んでいくと、誰でも知っている有名人がたくさんいます。

例えば、

 1929年小説家のヴァージニア・ウルフ、31年イタリアの教育者モンテッソーリ、46年アルゼンチンのエヴァ・ペロン、52年エリザベス女王、54年マリリン・モンロー、62年ジャクリーヌ・ケネディ、76年インディラ・ガンディー、87年ダイアナ妃、93年のトニー・モリソン(ノーベル文学賞受賞の黒人女性小説家)、2008年ミシェル・オバマ、2009年マララ・ユサフザイ・・・・などなど。

しかし私が知らなかった名前も6割近くになります。 

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5.  因みに、「今年の人」には今まで、日本人は選ばれていません。

その意味では、「今年の女性」に緒方貞子さんの名前を見るのは嬉しいことです。

 もう一人、今回の100人の中に、パッチイ・マツ・タケモト・ミンクという日系アメリカ人3世がいます。1972年の「今年の女性」で、私の知らなかった60人の1人です。

(1)1972年にアメリカで、連邦政府から援助金を受けている教育機関に対して性別による差別を禁じる教育改革法が成立したが、この原案を作成し、多大の貢献をしたのが、ハワイ州選出の民主党下院議員の彼女だった。(タケモトは実家の性)

(2)ハワイのマウイ高校で学生自治会の会長を務め(同校で女性は初めて)、卒業生総代で卒業した。しかし、一ダース以上の医学部から女性を理由に入学を拒否され、その後、ロースクールを卒業し弁護士資格を得たが、就職にあたっても性&人種差別を経験し、生涯を通じて差別と闘ってきた。

(3)アジア系アメリカ人女性として最初の下院議員であり、12年間議会活動を続けた。

(4) 1972年に成立してから50年弱、この法律は、女性のアスリートに平等の機会を与え、学生や職員がセクハラや差別を受けることを守り、法に違反する人たちが報復行為をすることに対する楯にもなってきた。

(5) 2002年の死後、彼女の名誉を称えるため、この法の名前は「パッチイ・T・ミンク教育機会均等法」と変えられた。2003年には彼女の名を付けた、低所得の女性とその子供たちの学費を支援する基金が設立された。2014年オバマ大統領は、大統領自由勲章を死後の彼女に授与した。

 以上、私の知らない、より良き社会のために貢献した、日本人の血を受けた女性がアメリカにいました。

f:id:ksen:20200428081646j:plain以下、感想です。

(6) それにしても、彼女がハワイの高校を卒業したのは1944年、太平洋戦争の最中です。敵国として戦っている国の血を引く彼女が自治会の会長や卒業生総代に選ばれたのはよほどのことだったのではないかな、と思いました。

(7) 法律にその成立に貢献した人物の名前を付けるのは良いアイディアですね。日本ではそもそも議員立法が少ないし、政府提出の法案は官僚が作成していますから、尽力した議員の名前を付けるという発想は出てこないでしょう。

(8) だから、アメリカの政治家にはロースクールを出た法の専門家が多いし、そもそも「法曹一元」が決まりです。つまり、「裁判官、検察官、弁護士のいわゆる法曹三者とさらにロー・スクールの教授を含めて、すべて弁護士からキャリアを始める」という制度です。

 政治家の多くがロースクール出であり、彼らはまず弁護士を経験し、現場を知り、被害者に共感を抱き、国民を守る法を作る気持ちを強く持つようになるのではないでしょうか。 

マスクも届き、㈱カスタネットの植木さんからも電話。

1. 今回も新型コロナウィルス関連のもろもろ報告です。

朝の散歩以外は自粛を続けています。幸いに我が家は長年生協と契約していて、週1回、食材を届けてくれます。

 アベノマスクは届きました。家人に任せて、開けずにそのまま施設に送りました。「アベノマスク不要なら寄付を」という新聞記事をみて、電話した上で送付しました。義母が最期にお世話になった病院にも電話したのですが、こちらは病院指定のマスクを使っていて在庫豊富なので結構です、という返事でした。因みに我が家では家人が、ネットの動画を見ながらせっせと手製を作ってくれます。

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2. 前回、オーストラリアの政府の対応が迅速だという報告と、早くも3月21日に閉鎖されたシドニー郊外の観光地ボンダイビーチの写真を載せました。29日付の「時事通信発」によれば、約5週間ぶりに一部、解除されたそうです。

 他方で欧州でもアメリカの一部でも、制限の一部解除が進んでいるようで、ニュージーランドも「制限緩和、企業活動・学校再開へ」というニュースを27日朝のBS国際ニュースがやっていました。

 予想されることですが、待ちに待った再開が始まると一部には混乱も出ます。以下は畏友のブログ「情報浴」4月30日付の引用です。

 「(ニュージーランドでは)6週間のロックダウンの後、昨日、一部レストランの開業を許した。最大都市オークランドではハンバーガー店に群衆が殺到、ドライブスルーには車の列が並び、交通麻痺。・・・政府は、即時ハンバーガー店の注文は予約制とするよう新規制。」

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3. そのニュージーランドですが、BS国際ニュースは39歳のアーダーン首相の対応への高い評価をとりあげました。彼女については、3月29日のブログで紹介しました。

https://ksen.hatenablog.com/entry/2020/03/29/081149

 テレビスピーチでの、断固とした決意。飾らない、温かい態度。国民の質問に丁寧に応じる、寄り添う姿勢。信頼度は高く、世論調査では88%の支持を得ているそうです。

 今回のCOVID-19の惨事にあたっては、メルケル首相を筆頭に、台湾、フィンランドアイスランド、NZなど女性の政治リーダーの対応が際立っているように感じます。

 他方で、日本の対応はというと、感染者・死者数とも低い数字で推移

しているというのに、国際的な評価はいまいちです。検査数が少ないことへの厳しい批判もあります。

 在ニューヨークの友人に教えてもらって視聴したのですが、30日の夜、コロンビア大学の東アジア研究所が主宰した、「日本におけるCOVID-19」と題するテレビトークがありました。

 日本政治が専門のジェラルド・カーティス同大名誉教授・元所長と日本側は竹中治堅政策研究大学院教授の2人でしたが、カーティス教授の見立てはかなり厳しいものでした。https://www.facebook.com/watch/live/?v=2652891534964994&ref=watch_permalink

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 政治の混乱、国民のフラストレーションの高まり、当初国民の救済よりパンデミック後の経済復興を優先したこと、自民党内部および公明党との緊張、などを指摘した上で、何らかの政変が起こるのではないか(「前回は失敗したが”小池の乱”のような)ということまで言及しました。

 同教授の「政治が変わるかも」という期待には共感します。しかし、個人的にはもう少し悲観的で、「のど元過ぎれば~」の保守的な日本人の国民性からして、なかなか難しいのではないかと聞きながら思いました。

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4.最後は、京都で株式会社カスタネットという中小企業を経営している植木力さんの奮闘の話です。

(1) 29日、彼から久しぶりに電話があり長話をしました。

実は、その数日前にぐうぜん彼が夕方7時のNHKニュースに出ているのをみて、家人に「あれ植木さんじゃない?」と言ったばかりでした。途中からテレビを付けたのですが、社名は出なかった。しかし関西ではもっと大きく放映されたそうです。

(2)話題は、コロナ対策に病院で必要な防護服が不足している。それを彼の会社がかねて取引のある台湾の会社のベトナム工場で生産してもらい、何十万枚も京都市経由病院に収めるという話です(彼のフェイスブックには連日アップしています)。

(3)彼の話では、この防護服、新しい会社や工場で生産しようとしても、すぐに製造できるものではない。彼の会社はもともと防災用品の1つとして、「マルチポンチョ」という製品を販売していた。その仕様をもとにすれば簡単に作れると思って、試作品を作ってもらい、京都市に見せたところ直ちに受注になったそうです。

 台湾のこの会社には、英米からも引き合いが来ていて、あちらは早い注文と大量発注、しかし長年の付き合いで、しかも親日的な風土のあるだけに、最優先で植木さんの依頼に応じようという気になってくれた。

(4)そんな話を電話で聞きながら、植木さん、頑張っているなと嬉しく思いました。

 彼のことだから、意気に感じて、利益度外視で、社会貢献という視点に絞って物事を進めている筈です。

 そしてそれを、小さい会社のイメージ向上につなげるのが彼のビジネス戦略としても優れたところです。

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5.植木さんとは、私が京都の大学に勤務している頃からの長い付き合いです。

(1) 大学で新しい「学科」を作ることになって、学長と二人でアメリカの大学を幾つか訪問しました。

 当時、「社会起業家」というビジネスと社会貢献とを両立する存在と考え方が英米で注目されていて、大学のカリキュラムにも入れる動きがありました。

 2006年ノーベル平和賞を受賞した、バングラデッシュのグラミン銀行創始者ムハマド・ユヌスがロール・モデルでした。

(2) 新しく出来た学科は、社会起業家について学び、「ソーシャルビジネス(社会企業)」に取り組む若者を育てたいという「理念」をPRしました。

 たまたま脱サラをして会社を立ち上げた植木さんが関心をもち、以来いろんな活動を一緒にやってきました。

(3) 彼は、創業したばかりの赤字会社を経営しながら、カンボジアに小学校を作る資金集めを手伝いました(開校式には一緒に出張しました)。

 ソーシャルビジネスを立ち上げる若者を支援する「塾」も開講しました。京都市の支援もあって町家を借りて、二人も講師になりました。

『小さな企業のソーシャルビジネス』という本も共著で出しました。

(4)それらを本来の会社経営で生かしつつ、「ビジネスの中で、社会の役に立ちたい」という思いで長く続けた、彼のアイディア・経験・実績が、今回の成果につながったのだろうと思います。

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6.私は、2月末に行く予定だったのをキャンセルして以来、京都行きはご無沙汰し、自粛しています。

 いつまた友人たちに再会できるかわかりませんが、それまでに植木さんが、この防護服の病院への納入を無事に終えて、皆さんに感謝され、役立つことを願っています。