ksen2006-03-29

藤野さんのブログにも写真が載っていますが、京都御苑のしだれ桜が咲きました。私も、28日(火)の朝、幸いに穏やかな日よりだったので訪問客を連れて行きました。写真はその時のものですが、例年より早く見事に咲いていました。

それにしても桜の開花を待ちわびて大騒ぎするのは私たちのDNAに桜を愛でる気持ちがとくべつ組み込まれているのでしょうね。
28日は、豪州からの夫婦を案内したのですが、彼らも、もちろん美しい・きれいとは思うようですが、我々のように愛でるという感じではないなと感じました。旧近衛邸跡の糸桜と呼ばれるしだれが咲いているのを見て、私など立ち止まって、いつまでも(10分でも20分でも)ぼおっと眺めていたいような気分になるのですが、彼らはいちど見たら十分というような感じでした。
人によって思いはさまざまでしょうが、例えば西行のうたが思い浮かぶとか、若かりし頃の大学の入学式を思い出すとか、すり込まれているものがあるからでしょうね。


入学式といえば本学は4月1日がそうです。新年度が始まると教員の方も授業の予習・復習でかなりの時間がとられます。本を読むのもどうしても授業に直結したものが優先してしまいます。
ということで(本当は研究テーマを優先して読まなければいけないのでしょうが)、本当に読みたいと思う本を読めるのも3月中ということで、やっと『丸山真男の時代』(竹内 洋、中公新書)を終えました。あと同じ中公新書で『ラテン語の世界―ローマが残した無限の遺産』(小林 標)も読んでいるのですがこちらは(実に面白い本ですが)残念ながら終わりそうもありません。

丸山真男といっても、もちろん若い人は知らないし関心もないでしょうが、私は、学生時代授業を受けたこともあり(数少ない「優」を貰いました)、忘れられない先生の1人です。私の学生時代は神様のような存在でした。
本書は、「大学・知識人・ジャーナリズム」という副題にもあるように、現在の「知」のあり方についても考えさせられます。「象牙の塔」という言葉は、いまでは「時代遅れ・現実離れ」を象徴する負のイメージの代表として使われます(というよりいまでは「負」を通りこして死語になっているかもしれません)。しかし、「象牙の塔」にも意味と存在価値があるのではないかという気もします。少なくとも、かってはこの言葉が正の価値を備えていた時代があったのではないか、と郷愁を覚えながら本書を読み終えたところです。


いまの大学は、教員も学生も、物わかりよく・現実判断にすぐれ・保守的で・体制に反抗したりイデオロギーを語るなんて古いと馬鹿にして・古典なんかまったく読まないで・・・と自らも含めて、感じています。60年代の安保改定反対のデモを思い出したり、いまフランスが学生のデモで騒然としているという報道を読みながらの感想です。ということは、私も年を取ったということでしょう。