ksen2006-03-31

machidaさん、asofiaさんまことに有り難うございます。
「桜は日本の資産」はいい言葉ですね。「知識産業が栄えると、こういう花見が必修になる」という発想も面白く読みました。これからは右脳と左脳をバランスさせていくことが大事だという気がします。ソーシャル・アントレプレナー社会起業家)はこの両方を併せ持つ資質が必要ではないでしょうか?


asofiaさんの問題意識はまことに核心をついていて、『丸山真男の時代』(竹内 洋)の中心テーマの1つだろうと思います。
本書の中で、やや脇道に逸れた文章ですが、面白く読んだので、引用しますと、


「・・・いまや「三等教授」どころではない。「教授」という呼称そのものが労働実態とミスマッチであり、あらぬ誤解をまねきかねないほどのものとなった。(略)研究などしてもらわなくてもよい、教育だけでよいと公言している大学もすくなくない。もはや大衆大学教授というより大学教授プロレタリアート、いや大学教育労働者や大学教育プロレタリアートとさえいったほうがよいほどである。(略)大学が教育機関だけになってしまえば、大学アカデミズムなどありようもなくなる」(P.306)


竹内教授は、教育が重視されるあまり研究がないがしろにされる風潮を嘆いているのですが、私は、教育そのものも、役に立つ・資格を取れるといったごく実用的な学問が学生に人気のある最近の風潮にも疑問を感じています。この点は、私のような社会人→大学教員が言うのはおかしく思われるかもしれませんが、逆にそういうキャリアだから余計に感じるのかもしれません。つまり、経験から言えるのは、ちゃんとした社会人であるためには、「役に立たない」学問の方が「役に立つ」のではないかということです。何れにせよごく少数意見でしょう。しかし、私がいまでも抱く教員のイメージは、あまりにも時代遅れと言われそうですが、漱石の『三四郎』に出てくる「偉大なる暗闇」であったり、『猫』に出てくる人たちであったりするのです。
学問というのは、実用でない・役に立たないから学問なのではないかという気持ちを強く持っています。ですから、異論は多いでしょうが、大学で学んだからNPONGO運営(まして企業経営)の役に立つなんてことはないのではないか。そういう学問もあるだろうが、それは大学で学ぶこととは違うのではないか。英会話を学ぶのにはそれにふさわしい学校があるように・・・・


少し固くなりましたので話題を変えますと、豪州からの夫婦は昨夕京都を離れました。私は3年半住んでいたシドニーにはもう8年ほど訪れていないのですが、昔話やその後のシドニーの変貌について話題がはずみました。例えば、


・ ハーバー・ブリッジというシドニー湾にかかるアーチ型の美しい橋があるのですが(写真)、いつからか橋のアーチのいちばん上まで徒歩で登れるようになって、3時間ほどかかり1人140豪ドル取るそうですが、大人気とのこと。(この話、サイトでも見つけましたが、サイトには平日155ドルと書いてあります。友人の知識も少し古いかもしれません)。

・ 当時から日本食とくにスシは評判でしたが、最近はもっぱら廻転寿司が増えて、これを「スシ・トレイン(列車)」と言うそうです。廻転寿司のことを一般に言う普通名詞なのか店の名前なのか、友人は必ずしも定かではありませんが、言い得て妙ですね。ニューヨークもロンドンも「スシ・トレイン」でしょうか?