『モルガンお雪、愛に生き信に死す』

柳居子さん、ご指摘ごもっともです。

夫婦合わせて1年730日、うち東京・京都・茅野それぞれにて2人が一緒に過ごしたのは、
幸いなことにその3分の1弱でしょうか。

この週末は、またいろいろと用事があって東京に居ります。


柳居子さんに貸して頂いた、『モルガンお雪、愛に生き信に死す』
(小坂井澄、講談社、1975年)をたいへん面白く読み終えたところです。


1963年に82歳で京都で亡くなった「テレジア・ユキ・モルガン」が生前、
カトリック衣笠教会の聖堂を寄進した大叔母とのこと。


名前しか知らなかった歴史上の人物の生涯についての知識を得るよい機会となりましした。

その生涯とは


1. 京都に生まれ、祇園の芸妓時代にジョージ・デニソン・モルガン
(あの、J.P.モルガンの甥)に見初められて結婚(日本人の正式な国際結婚としては
おそらく第1号ではないか・・・と柳さん)。


2. 短いNY生活のあと、永住のつもりでパリに住むが、数年で夫が
スペインで客死(彼44歳ユキ34歳)、その後、タンダールというもと軍人の
学者と南仏に住むが結婚は出来ぬまま、彼も15年後54歳で心臓発作で死去、
ユキ50歳。

3. その後は、ひとり南仏のニースに住むが、戦争の危険が高まり、
身分証明の更新も出来なかったこともあり、1938年57歳のときに30数年ぶりに
帰国、戦争中、戦後の苦難の時期にずっと京都に暮らし、帰国後、25年の日本
暮らしを経て死去。この間、71歳で受洗。


以上の要約にはとても書ききれない、月並みなことばですが実に「数奇な」
一生でした。
こういう日本人の女性が居たのですね。

幾つかの感想を補足しておきます。


1. 本書の著者自身クリスチャンであり、ユキのキリスト教への帰依が
丁寧に書かれている。フランス時代に熱心に学んだこと、その頃の「信心」が、
むしろ帰国して高齢になってから「信仰」に変わっていき、受洗すること。著者は、
「私達の国籍は天にある」という聖書の言葉を本書の題辞に掲げている。


2. 地上では、夫モルガンと結婚して日本国籍を失い、夫の死と
その後の米国での排日機運もあって、アメリカ国籍を喪失、フランスにおける
身分証明の更新(アメリカ市民の未亡人であるという)も認められず、無国籍の人間
として生を終えた。日本帰国後、国籍の回復は不可能ではなかったが、
本書によると、モルガンの姓を捨てて加藤姓に戻ることという条件を受けいれ
なかったためとある。まさに「故郷喪失者(ハイマートロス)」のひとり。


3. それでも短いながら、パリでの華やかな、南仏での穏やかな・
幸せな暮らしがあった。また夫の妹キャロラインとは終生親しく、
モルガン家の顧問弁護士は最後まで彼女を支援し、遺産の確保に尽力。
他にフランス時代も少数ながら、良き友人・神父・修道女たちとの
付き合いに恵まれていた。


4.そんな彼女にとって、30年ぶりの日本・日本人はどう写ったか?帰国直後、
作家の吉屋信子がインタビューし、雑誌「主婦の友」に「モルガンお雪さんと
語る」と題して掲載した文章によると、

おぼつかない日本語でこんな応答をしたそうである
「フランス、ヒトノコト、カマイマセン。ニホン、アマリ、ヒトノコト、
サワギスギマス」

「ユキは自分にとって、心の故郷が日本なのかフランスなのか、
自分でもわからなくなっていた」と著者は書く。帰国しても、
日本語もおぼつかなく、すぐにフランス語が出てしまう日々が続いた。


5.そもそも彼女は何れ、日本を離れる、一時帰国のつもりだったと著者は言う。
しかし、戦争がそれを不可能にさせた。京都でアメリカ人やフランス人の神父と
親しく付き合い、やがて洗礼を受けるまでへの彼女の心の軌跡につながるのだろう。


いま日本人で、特に女性の場合、海外を本拠地にしたり或いは、
外国人と結婚したりするのは決して珍しくなく、私の周りにも何人も知人が居ます。


ユキ・モルガンの生きた時代には稀有であり、
本当に「数奇」な人生だったと思います。