江原素六と「青年即未来」

夏休みには久しぶりに孫たちに会う機会がありました。

田舎の家に3泊していったのですが、今年中学に入ったばかりの上の子
から学校の話を聞く機会がありました。

私の(そして息子の)母校でもあり、なつかしく聞きました。

成績表をもらったが、定期試験の点がそのまま平均点とともに示される、
45点以下は赤点と言って、赤ペンで表示される・・など、60年前と同じでした。
(私も、幾何その他で赤点をもらいました)


1995年が創立100年で、これを記念した、たいへん立派な分厚い出版物があり、
これを持参してくれました。

「歴史」「文集」「年表・アルバム」と全3巻です。

このころ私は海外勤務で留守だったせいがあるかもしれませんが、
その存在を知らず、今回初めて手にとって眺めました。

「歴史」には、さまざまな出来事が記録されていますが、
創立者であり江原素六についても多くのページを割いています。


麻布中学江原素六であり、江原素六麻布中学である、とも言われる人物に
ついて、私にとっても勉強になったので、以下記録しておきます。


(1)1842年生まれ、1922年、80歳で逝去。
ニューヨーク・タイムズが訃報を載せたそうです。これには驚きました。

「教育家にして政友会の領袖。
1912年以来、貴族院議員の一員であったが、令名はむしろ
その官によらざる活動〔ノン・オフィシャル・キャリア〕において高い」と。
・・・・(思うに、これ、いい表現ですね)

(2)幕末の貧しい下級旗本の長男に生まれ、戊辰戦争に参加、敗北を経験。
のち明治新政府に取り立てられ、沼津兵学校を設立、校長となる。

(3)この時代、35歳で受洗、39歳で2度目の洗礼。キリスト者となる。

(4)1895年麻布中学校設立、死ぬまで校長となる。最後の年まで修学旅行に
参加し、学生とともに山を歩いたという。学校では、毎日朝、1時間の
修身講話を担当。その前の15分を割いて、聖書の話をした。
但し、経営は幹事の某に、教育については教頭の清水由松(2代校長)に
一切を任せたという。


1912年のある日の修身で「品性」という題で、こんな話をしたという。

「先日、自分は、たまたま同じ日、総理大臣、商業会議所、ある青年者の会合
と3つから夕食に出席するよう請われた。「青年の友たるは余の素志である。
故に(他の2つは断って)15銭の会費をもってする青年会に出席した。
これ余の品性と一致しておるからである」・・・


(5)貴族院議員は務めたが、文部大臣や外務大臣の打診は何れも辞退。
また1917年の東京女子大創立にあたり、新渡戸稲造他が、学長就任を懇請
した際も「大学は自分の柄ではない」と固辞。麻布を大隈の
早稲田に対抗する大学に発展させようという政友会の動きをも
拒絶。

伝記の著者は「他の私学創立者の多くが学園規模の拡大を図る中で、
江原素六はそうした傾向には無頓着であった。彼は自らを
「何事にも中くらいの人間」と評し、ひたすら眼前の少年たちを見つめ続けた。
今日もなお狭い校門をその特徴とする麻布学園は、その規模において江原素六
中心とした創立期の原風景を残しているといえよう」と書いている。


私が中学生だったときも、江原素六の話はたびたび聞かされたと思いますが、全く
記憶にありませんし、そもそも興味もありませんでした。

やっとこの年になって、こういう人物だったのか、と知らされた次第です。


孫は、「江原素六の生涯」という本を読んで、800字の感想文を
書くという宿題があるそうです。

我が家に居る間に書きあげた文章を読んでみたら、上述の「品性」についての
エピソード(15銭の会費を払って青年会の夕食会に出た話)を紹介していました。


12歳の少年と70歳の老人が、同じ挿話を面白いと思って、自分の文章に取り上げた
た、というそのことにも面白いと思った次第です。