蓼科高原の秋

osamuさん、コメント有難うございます。
本当に、ブログのおかげで、ご縁がさら
に繋がりますね。
それにしても、そちらのブログは写真が
きれいで編集も見事で感心しております。

当方は今回も下手な写真を並べるだけです、それと、
仲間が作ってくれたままの技術水準で、
いまだにリンクをはることも出来ず申し
わけありません。

「70歳夫婦の英国旅行」と題して拙い話を披露しましたが、高々3週間
居たぐらいで「英国人とは」を喋るのは
少し厚かましいのではないかと思う方も多いと思います。

その点は、当日もちょっと触れましたが、
今回の最後に、他人の意見を引用して
弁解させていただきます。


この週末は、秋の蓼科高原を満喫しました。


コスモスは9月ほど盛んではないが、
それでもまだ咲いています。
「紅白もさみしきものよ秋桜」(泰)

稲刈りも終わり、田には「稲架」の光景も見られます。
刈った稲をかけて乾かすもの、これを「はさ」または「はざ」と言う、と先日、蓼科から高遠にご一緒した
ときに我善坊さんに教えてもらいました。
「稲掛けて家まばらなり谷の底」(子規)

今年は、猛暑のせいか、稲刈りも例年より
早いようです。
そばも刈りとられ、そばの花が咲いています。


アジサイも咲いています。
写真は、私の住む茅野市豊平の隣にある原村のペンションの庭で撮ったもの。
「山アジサイ・くれない」と言うと、
ご主人に教えていただきました。

家の近くを歩くと、紅葉はまだいちぶですが、ちょうど、からまつに生えるつたが
真っ赤できれいな眺めです。


車で15分ほど、御射鹿池に行ってみましたが、紅葉はあと1〜2週間先でしょう。
しかし、静かですてきな眺めでした。
ここは、ご存知の方も多いでしょうが、
何もない人口の池ですが、東山魁夷
「緑響く」
という絵を描いた場所らしいということで
有名になりました。
絵には、白い馬が登場しますが、もちろんこれは想像でしょう。

今年から、幸いなことに時間ができて、
いままで来たこともない秋に滞在すること
が出来ました。

来年以降も元気であれば、1年のうち3ヶ月
を目標に春や秋も楽しみたいと思っています。



静かな時間、本も読み、『逝きし世の面影』(渡辺京二平凡社ライブラリー2005年)を読み終えました。


この本、かねて読もうと思って書棚に
おいてあったのですが、これも時間
が出来たせいでやっと手に取りました。

初版は1998年に葦書房から出て、98年の
和辻哲郎文化賞を受賞。

ところが絶版になってしまい、幻の本と言われていたのが平凡社が再発行し、以来20回ほど刷っています。

本の帯に「絶賛の声鳴り止まぬロングセラー」とあります。

この本の中身については次回以降も
触れると思いますが、

要は、幕末から明治はじめの日本と日本人が、来日外国人の観察によれば、
「夢のように美しい、素朴で幸せに満ちた人々」であった、それは1つのユニークな、
かついまは滅亡してしまった文明なのだ、
と指摘しています。

今回、紹介したいのは、本書56ページ
にあるエミール・ギメ(世界有数の東洋美術館と知られるパリのギメ博物館の創設者)が、
1876年(明治9年)に日本に滞在して書いた見聞記に触れたエピソードです。


短期間の印象を書くのは間違いも多いだろう、それより生まれ育ったフランスのことを書いた方がましだろうというある
外国人の批判に対して、渡辺京二はこう書く。

・ ・・それに対するギメの答えは注目に値する。
「私はそんなことはしません。フランスが何であるかを知りたくなれば、私は日本人の旅行記を読むでしょう」


そして、著者は続ける。

・ ・・ここにはすでに文化人類学
的方法の要諦が語られている。ある文明の
特質はそれを異文化として経験するもの
にしか見えてこないとギメは語っている
のだ。第一印象にすべてをかけるという
彼の方法論はこの自覚に由来する。
接触が長びけば長びくほど、異文化は
その異質さを失うだろう。錯覚や誤解は
計算に織り込みずみだ。要は第一印象
こそが、異質なものへのもっとも鮮やか
な感受であるということだ。


かましいことは百も承知で言えば、ギメさんや渡辺京二さんは、彼らのような知見の持ち主でなくとも、誰もが第一印象から
異文化に接するという方法論の意味について語っていると思うのです。


3週間の滞在で「英国とは・・」と
私が語るにあたって、本書56ページ
は大いに後押しをしてくれました。

八ヶ岳も山の上の方には紅葉がみられ
ます。