大上段だけど、リーダーシップ論

1.「いまの政局」については、メディアが(話題が出来たと大喜びで?)大騒ぎしていると思うのでお任せして、ここでは別の視点で考えたいと思います。
(因みに、今朝の東京新聞には、ここにきての「菅降ろし」には原発問題の暗い過去を隠したい政治家の思惑があるのではないかという記事がありましたが、本当でしょうか?)
その前日の同紙は、「国難のリーダー像は?」という特集記事で、菅首相批判の理由に「リーダーシップの欠如、無能なリーダー」が指摘されると書いています。


そこで私も、あらためて「リーダーとは?リーダーシップとは?」を考えてみました。
少し長くなります。


2.まず第1に、そもそも、なぜカタカナ日本語か?という疑問です。
なぜ「指導者」とか「指導力」とか言わないのでしょう。
これを長く説明している紙数はありません。前にブログのコメントで教えてもらった、『翻訳語成立事情』(柳父章岩波新書)を読んでの「気付き」で言えば、こういう考え方が少なくとも明治以前の日本にはなかったからだ(概念そのものが輸入品だから)と言えるだろうと思います。

なぜ、無かったか?
これは私見ですが、リーダーシップというのは、古来の日本のような「タテ社会」での人間関係の在り方ではないからです。


これも詳しく説明する余裕もありませんが、要は欧米は、「タテだけの(そしてもっと言えば、お互いに同じ日本人だから黙っていても分かっているよね、という人間関係で成り立っている)社会」ではないからこそ、リーダーシップが必要であり、そのための訓練も教育もされているのです。


日本人はもともと(そして、今もかなりの程度で)「ヨコ」あるいは「(良くも悪くも)強い“個”」同士がぶつかり合う人間関係の中で誰かが指導力を発揮するのは不得手なのだし、(リードする方もされる方も)そういう教育・訓練を受けていないのだと思います。


極論すれば、菅さんだけの問題でなく日本人みんなが大なり小なり苦手であり「欠如」しているのです。
(優れたリーダーと言う時に、例えば「織田信長」をあげる有識者が多い。前述した東京新聞の特集でも某氏が「信長は壮大な構想力と実行力があった」ととくとくと語っていました。

しかし、彼は前近代の、「タテ社会」かつ「封建社会」「武士社会」の優れたリーダーなのです。
今の社会に織田信長をもち出すのは、私には滑稽としか思えません)


3.次に、それなら、「100%タテ社会」ではなく・かつ「個」が確立している人間関係におけるリーダーシップとは何か?何が大事なのか?


これも、いろんな人がいろんなことを書いていて、山のような「リーダーシップ論」があります。


例えばGEのCEOを20年も務め、「20世紀最大の経営者」と言われるジャック・ウェルチは著者『勝利の経営』で、「人間が大事」と言い続けており、1章をまるまる「リーダーシップの在り方」に費やして熱心に書いていますが、
私が理解する限り、彼がもっとも大事だと考えるのは
(1) ヴィジョン・理念
(2) 魅力ある人格と誠実・ウソをつかないこと


の2つだと思います。


4.「プリンシプル」よりも「和」を大事にする日本人に(1)はなかなか難しいですが、その点はおいて、問題は「魅力ある人格・誠実とは?」について、
大事なのは以下の3点です。

(1) これもまた生まれついての「高潔な人格者」という日本的な発想と違って、「教育・訓練・文化」によって「身につけるもの」だということ。

(2)「ウソをつかない」という点について言えば、(良くも悪くも)この点で西欧と日本との価値観はかなり違うということ。
日本人は幕末に日本にきた西欧人が大いに驚いたように、「ウソも方便」と言うように、平気でウソをつく。むしろ、ウソを絶対悪とは考えていない。
(この点は渡辺京二の『逝きし世の面影』が詳しい)
(「清濁あわせ呑む人物」が評価される日本の政治の世界も、この点に関係する)


(3)また、「魅力ある人格」とは、「センス・オブ・ユーモア」と「ある種の愚かさ・欠点・抜けているところ」が重要であること。
(因みに、これもまた、生来というより訓練・教育・文化によって可能になると彼らは考える)
これは、「人間は、自分を愚かだと思い、自分を笑えることのできる人間を信頼し、支え・応援する気になるのだ」という人間観に基づいていること。


5.もちろん、さまざまなリーダー像がありうるわけで、とくに(3)については、違うリーダー像も在り得ます。

よく例に出されるのが、英国の2人の英雄、ウェリントン公爵とネルソン提督の比較です。
2人とも対ナポレオン戦争の勝利で英国を欧州の覇者にさせた立役者。
前者は陸のワーテルローで破り、後者は海のトラファルガー沖海戦で大勝利。


この2人は対照的で、もともと貴族出身、名門イートン校出身でいわゆる「英国パブリックスクール魂」を身につけて「ワーテルローの戦勝はイートン校の校庭において獲得された」という有名な言葉を残したウェリントン


他方で、ネルソンは12歳で海軍にはいった根っからのたたき上げで常に、現場で部下とともに戦うことを望んだ人物。


そして、部下から「ウェリントンは大いに畏敬され、ネルソンは大いに愛された」。


血気盛んで、激情家のネルソンは、無鉄砲で、それだけに欠点も多かった。チョンボも多くあった。ミラノ公使夫人エマ・ハミルトンと有名な不倫もした。

しかし「愛された」。この人の下で戦いたいという部下が多く、集まった。

このようにリーダー、もちろん、いろいろです。


ただ、この2人は欧米であっても軍隊という「タテ」社会のリーダーであって、それでもなお、ネルソンの方が今でも英国では人気があると思う。
彼には部下や友人が「この人を助けなければ、支えなければ・・」という「ある種の人間臭さ・愚かさ」があったのだと思う。


7.「センス・オブ・ユーモア」について言えば、

「こんな国難のときに、ジョークを言うとは不謹慎だ」と憤慨する、まじめな日本人が多いかもしれない。
しかし、危機・苦難にあるときほど、ユーモアで対処するリーダーを見ると、何がなし、ほっとするのではないだろうか。


「苦しいからこそ、辛いからこそ、悩み・悲しんでいるからこそ、怒りたくなるからこそ、そんな態度や表情を他人に見せられるか!」という心意気、と言ってもよいでしょう。


8.アメリカの大統領には、こういうエピソードがいろいろあって、しかも国民はこれらを愛し、語り継ぎます。


(1) 細かいことは忘れたが、ロナルド・レーガン大統領が、暗殺未遂事件で狙撃されて、銃弾摘出の手術を受けることになった。
意識はあって、手術室に入る彼は、担当するお医者さんに向って
「君が共和党員だったら、安心なんだけど(民主党員だったら、ちゃんと手術してくれないんじゃないの?というジョーク)・・・」と言ったという。


(2) またまたリンカーン大統領ですが、
南北戦争の当初、北軍は大苦戦。南軍は優秀な指揮官のもと攻勢をかけ、北軍は、逃げて、反撃せず、動かず、政府も国民も弱い北軍を批判し、リンカーンは悩み抜いていた。

・そんなある日、軍の司令部を訪れ、たまたま階段を下りてきたリンカーンに気づかずに急いで走ってきた若い兵士がまともにぶつかってしまった。
大失策に顔面蒼白になって謝る兵士に向って、リンカーンはよろけながら、即座に
北軍の兵士が、みんな君みたいに勇敢だといいんだけどね」
と応じたという。



9.リーダーの、こういう言動を国民は好きなのですよね(日本人はどうかは分かりませんが)。

ひょっとして、
・菅さん(だけでなく多くの日本人には)にはこういう「センス・オブ・ユーモア」が全くないのかもしれない。
・あるいは、意外に、豊富にあるのかもしれない。あっても「こんなことを言ったらマスコミに“こんな時期に不謹慎だ”と批判されるかもしれない、と思って言わないのかもしれない。あるいはマスコミが「こんな言動を報道したら不謹慎だと国民が怒りだすんじゃないか」と思って伝えないのかもしれない。その結果、いつも、難しそうな・真剣で真面目な表情か作り笑いしか国民は知らない。


どちらにしても、(大げさに言えば)日本にとって不幸なことだと思います。