調子に乗って、今度はコミュニケーション論

柳居子さん、我善坊さん、 氤岳居士さん、さわやかNさん、前回のだらだら長文に対して、的確なコメントまことに有難うございます。ご指摘の通り、自分では何のリスクも行動も取らずに口先だけで批判と悪口を繰り返す、マスコミというのは不思議な存在ですね。

これ以上コメントへのコメントは省略させて頂きますが、思いを共有する友が少数でもいることは嬉しい限りです。



調子に乗って今回も続けます。


1. 今回の「辞任時期をめぐるごたごた、鳩山さんの“ペテン師”発言」は、ご指摘の通り「豊かで平和な日本」の象徴かもしれませんが、怒ったり呆れたりする人が多い中で、
私は「またまた格好の事例教材が出来たわい。
今度のテーマは“コミュニケーション”だよ!」
と無邪気に喜んで(?)おります。
アメリカの大学から、「日本人の思考と行動」のゼミ教材作成の依頼でも来ないものでしょうか?)


2. なぜ、この事件のテーマがコミュニケーションなのか?
基本的には前回と同じロジックの展開になりますが、今回もぐたぐた長くなる予感がするので、御用とお急ぎの方のために先に結論を書いておきます。


(1)「コミュニケーション」がいつからカタカナ日本語になったか知らないが、言葉は輸入しても、その文化・概念は日本に根付いていない。
(2)だからリーダーシップと同じく、菅さん・鳩さんに限らず、私たちみんなが大なり小なりコミュニケーション能力は「欠如」している。今回は危機意識・利害の対立と思惑・それぞれのエゴが強くて、それがちょっと突出しただけ。
(3)これを変えるには、西欧流のコミュニケーションの理解と文化を身につけるか、それとも、日本は日本流で世界を構築するか。
腹をくくるしかない。
今はどちらでもない宙ぶらりんです。


3.そもそも「コミュニケーション」とは何か?(正確に言えばcommunicationとは何か?)
(ここはちょっと恰好つけて喋ります)

(1) それはまず、世界は「個人」(individual)と「社会(society)」という対立する2要素から成り立つという認識から出発する。
(2) この2つは対立概念であり、コミュニケーションを通して、2つは和解し、折り合い、共同して「世界構築」に向う。これが「文明」である。(原発問題を見よ)
(3) 従って、コミュニケーションの前提にあるのは、私という「個」は個の集まりである「社会」とは違うという認識であり、「私」は「あなた」と100%は理解しあえないという諦念である。
だからこそ、コミュニケーションとは、ちがう「私」と「あなた」とが、少しでも共有する「世界観」をもつべく努力して、ともに手を携えて良き文明・未来を構築していこうという、決然たる意志の姿勢、行為である。
(4) これに対して、日本人が考えるコミュニケ―ションは?
私は(多少誇張もあるかもしれないけど)こう理解しています。
・・・・日本人にとっては「私」と「あなた」は基本的には同じ人類(「人間みな兄弟」!)。まあ80%ぐらいはもともと分かりあっている。社会もそういう人たちの集まりである。
従って、コミュニケーションとは、残りの20%ぐらいの違いを、理解しあう、あるいは少なくする、妥協する、理想的には100%同じにする、そういう行為である。愛とか友情とか平和とはそういう努力の上で達成されるものである。・・・・

(5)この違いは、実に大きいのではないでしょうか。


4.次に、以上3の(3)の認識に立つと、
「コミュニケーションは、いつもうまく行くとは限らない。失敗も悲劇も起こりうる」という立場で行動することになります(この認識が意外と大事です)。


「うまく行く」ためにはどうしたらよいか?
それが、ルールを作り、システムを作ることであり、コミュニケーションであれば
(1) 文書と契約(による「個」と「社会」の合意)を重視
(2) 明確にされた言葉は、言葉として重視する
の2つです。


5.アメリカが「契約社会」であるとはよく言われます。弁護士が活躍する社会でもありますが、それは以上の考えによります。

日本人はこの、契約できちんとしておく、或いは契約上のリスクを想定するのが苦手ですね。
ビジネスの世界での失敗例が過去に幾つもありますが、
事例名だけ上げると、1990年代日本長期信用銀行が倒産し、国有化され、政府がそれを払い下げ、リップルウッドというアメリカの投資ファンドが買い取ったときの、有名な「瑕疵担保条項」です。
政府は契約文言に入れたにも拘わらず、リスクを想定しておらず、追加負担を強いられ、国民の税金で賄いました。


6.もう1つ「言葉の重み」に関して言えば、
“My word is my bond”(私が口で約束したことは、証文である)という言葉があります。


今はコンピュータの時代であまり使われないでしょうが、我々の時代、海外の金融市場の用語としてまだ生きていました。

例えば、百万ドルを円を対価に市場(マーケット)で外国為替のブローカー経由電話で購入する。1ドル80円で買いたいとオファーするとします(総額8千万円です)。

後には電話の会話を録音するようになりましたが、昔は、電話一本、2人だけのやりとりで文書も証拠ものこりません。
それでもブローカーが売り手の銀行を探して「80円で100万ドル売り。Done(決まり)」と言ったら、それで約定成立です。

10分後に市場で円が1ドル78円に円高になって、今なら2百万円安くドルを買える、約定を変えてくれないか?
或いは、英語が下手でよく理解できず、売りと買いを間違えた(売り買いでもちろん価格は違う)、単純な英語のミスでこのままだと大損するのでキャンセルしてもらえないか?

と頼み込んでも、「doneはdone」です。約定を実行するしかありません。


無理にでもキャンセルを強行しようとしたら、どうなるか?

直ちに、その情報は市場を駆け巡って、以後、その人は市場で2度と相手にされなくなります。

「意味の明確な言葉で交わされたコミュニケーション(そもそも明確でなければコミュニケーションではありませんが)の中身」は(当事者以外に証拠がなくても)守る。
このルールが守られなければ、時に対立する「(責任ある・自立した)個人」と「社会」との共存、つまり「世界」は成り立ちません。

そう言えば、日本にも昔「武士に二言はござらぬ」という言葉がありましたが、あれはどういうコミュニケーションと価値感を前提にしているのでしょう?


7.今までお話したことと、菅さん・鳩さんのやりとりと、どういう関係があるのか?
分かって頂いたでしょうか?

簡単に言えば、
あの「やりとり」は英語のcommunicationではないのです。個人と個人が「違い」を分かりあおうとする「行為」でさえありません。 お互いに不信を生み、結果はうまく行かなかったけれど、本来の意図は、あれは、日本人だからお互い80%は分かっているよね、を確認する「儀式」です。
そして、私たち日本人は本人を含めて皆、あれをコミュニケーションと思っている、ただ彼らの場合は「誠意が足りないだけ」あるいは「お互いの理解が違っただけ」、だから「サギ」だの「ペテン」だのと怒っているのです。
ということは、
政治の世界でも私たちの間でも、また同じようなことが起こり得る、ということでもあります。



8.最後に蛇足です。
冒頭に
(1) コミュニケーションを本当に理解するか?
(2) 日本流でいくか?
どちらか腹をくくるしかない
と言いました。

(3) の、日本流に腹をくくるとはどういうことか?


―――お互い80%は理解しあっている筈だし、所詮、人類はみな兄弟なのだからと安心して社会と共存する生き方です。
残りの20%の違いは、あいまいにして、サギもぺテンもあり(ここだけ急に洋風になって憤慨しても仕方がない)、ウソも方便、建て前と本音があるよね・・・・という価値観のもとに、「個」ではなく共同体の一員として仲良く・幸せに、日本流の「文明」をつくっていく、ということです。


これが、渡辺京二の言う、古・日本人でしょう。