カミュの『異邦人』と追悼・窪田啓作

1. さわやかNさん有難うございます。
「女性の生き方の多様性が、これからの時代では非常に参考になる」という指摘は説得力がありますね。


もちろん「モデル」あるいは「ロールモデル」とは何を意味するか?
人によって違うでしょうから、定義が大事ですが、私としては「自分の生き方やキャリア選択の参考に
なるような先人・先輩」という意味で(おそらくNさんも同じでしょうと思って)使っています。

2. 私にとって若い時の、そういう「ロールモデル」として、おそらく誰も知らないでしょうが、今年、
パリで91歳で亡くなった窪田啓作氏に触れたいと思います(以前、エッセイに取り上げたこともあります)。

同氏は本名は窪田開造。1920年生まれ。東大法学部在学中に、加藤周一(19年生)中村真一郎(18年)、
福永武彦池澤夏樹の父上)等と文学同人「マチネ・ポエティック」を結成。
フランス文学の翻訳や小説を発表。
卒業後の1943年、横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)に入行。
フランス文学の仕事は早い時期に辞めて有能な銀行員として生き、但し、フランスへの愛着は捨てず、
欧州東京銀行の頭取等を経て退職し、そのままパリに住み続けた。
(あまり自信はないが)たしか奥さまはフランス人ではなかったか。


3. 彼をもっとも有名にしたのは、何と言っても、若い時にアルベール・カミュの『異邦人』を訳したこと。

これは名訳と言われて、今でも他の人の翻訳が出ていないと思う。
新潮文庫で最初に出たのが1954年、私の手元にあるのが平成7(1995)年版だが、実に98刷とある。

「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった
・・・・・」で始まる出だしの3行は、今でも暗唱できます。


4. 窪田さんどころか、カミュを知る人ももう少ないでしょうね。
当時フランス領のアルジェリアで生まれ、戦後、サルトルと並んで「実存主義」の旗手と謳われ、その思想
(「不条理の哲学」と呼ばれる)は『シジフォスの神話』や『反抗的人間』等にみられる。
寡作だが、『ペスト』はおそらく戦後文学を代表する傑作で(私も、戦後の翻訳小説で・好きなベストの1つです。
何回も読んでいます)、44歳という異例の若さでノーベル文学賞を受賞。46歳の若さで自動車事故で死去(自殺ともいわれる)。


1960年の安保紛争の直後で、キャリア選択に迷っていた私にとって、カミュサルトルトーマス・マン等に
かぶれていた青臭い文学青年だった私にとって、窪田さんという存在と同氏が働いている職場というのは大いに魅力でした。


古い話で自慢みたいで恐縮ですが、公務員試験にも合格して、そこそこの成績だったのであちこちの官庁の先輩から
戸別訪問・勧誘までもらいながら、それでも東京銀行という職場に入れてもらったのは、窪田さんの存在が大きかった
と思います。


ところが、国内の勤務でも、19歳も年長の・尊敬する先輩に会う勇気は新入行員にはとてもなく、
また、同氏はもっぱらフランス語の達人、私はせめて英語ぐらい多少は出来るようになれと入行4年目でアメリカに
送られ、以後まったく会う機会に恵まれずに終わりました。
国内に居る時は、「仕事の良くできる・厳しい先輩」という噂もあり、私のような落第銀行員には全く縁遠い存在
でもありました。


いちどでも勇気を出してお会いしておけばよかったな、と今頃後悔してももう遅いのですが。


5. ということで、尊敬する大先輩の足元にも及ばないような仕事と人生しか送れず、私が「モデルです」
と言うのもおこがましい次第ですが、今月、パリで亡くなられたというメールが銀行のOB会事務局から届いて、
感慨ひとしおでした。

「あなたの背中を見て、銀行に入りました」と遺影に呼びかけさせて頂きたい思いです。

さらに言えば、
「先輩にはまったく及ばない銀行生活でしたが、それでも、ここで働いて本当にハッピーでした。私のような、
週末は仕事の勉強もせずに小説を読みふけっていたような若者でもいじめられず・むしろ大事にしてもらって、
いい職場でした。これも窪田さんのお陰です」と付け加えたいと思います。


6. 以上、今回はまことに個人的なエピソードに終始してしまい、恐縮です。

しかし、
いまの若者にとって「生き方やキャリア選択の参考になるような先人・先輩が居るのだろうか?」と訊いてみたい
気持ちはあります。

やはり人は時代とともに生きるしかないので、窪田さんみたいな人は(多分、旧制高校の文化やエートスの産物でも
あるでしょうから)いまは居ないでしょうね。


それと、そもそも、この厳しい時代に、企業文化や職場の雰囲気、人間関係もすっかり変わっているのだろう
と思います。