蓼科遠来の客と手塚宗求さん

1. 例によってお礼が遅くなりましたが、柳居子さん、さわやかNさん、有り難うございます。
碑の文章についての起草者の苦労、いつものように鋭いご指摘ですね。
さわやかNさんも、その通りでしょうね。殆どのアメリカ人は「どこの馬の骨か分からない」ルーツですから、未来志向にならざるを得ないでしょう。


2. 私のような老人はやはり「追憶」と「いま」志向にならざるを得ません。
ここ茅野市は、今年は幸いに台風の訪れもなく、10月も良い天気が多いです。

秋になってもお陰さまで来客もあって、賑やかに暮らしております。

10日には息子の連れ合いと孫娘が学校の休みを利用して高速バスで日帰りでやって来ました。
そばの花は本来白いのですが、ちょうど紅そばの花が満開で、八ヶ岳もよく見え、田舎の秋の風情を楽しんで都会に戻りました。

週末には、KSEN(京都ソーシャル・アントレプレナー・ネットワーク)の東京転勤組3人の若者(こちらも年齢的には孫に近いですが)が「歩き」にやって来ました。
幸いに素晴らしい好天で、霧ヶ峰のあたりまで行くと、八ヶ岳はもちろん、富士山、南アルプス、木曾御岳山、北アルプスが一望できました。

年寄りが1人ジョインして迷惑だったかもしれませんが、車山の山頂まで登り、あたりを歩き、草紅葉やすすきを眺め、蒼く深い空を見上げ、国の天然記念物に指定されている八島湿原では、信州大学農学部を出たという若い女性のガイドさんから湿原の成り立ちや特徴などの説明を聞きました。

若者は何れも大手企業に勤務。
男性1人と女性2人。男性は今月は週末も出勤しており、初めてゆっくりした休日だそうで、女性の1人は、金曜日(12日)に急きょ出張が入って、東京から浜松で仕事を終えて真夜中近く茅野に到着。日ごろ、よく働いている若者へのご褒美か、本当に良い天気でした。

3. ということで今回は、下手な素人写真が多くなりますが、最後に、コロボックル・ヒュッテの手塚宗求さんのことです。
ヒュッテは霧ヶ峰高原車山肩にある小さな山小屋です。http://homepage2.nifty.com/koro-1956/
その歴史は、サイトの「ヒストリー」に詳しいし、当時の貴重な写真もありますが、
http://homepage2.nifty.com/koro-1956/
手塚さんという登山家でスキーの名手がまだ24歳の1956年、自力で建てたのが始まりです。
以下「ヒストリー」から引用すると、

・・・当時のこのあたりは無人境で交通手段はなく、山小屋で使うすべての物資は、約3.5km離れた西の霧ヶ峰(現在の強清水こわしみず)から背負って運んだものです。

山小屋で使う水は300m下の沢から運び、天水(雨水)も利用しました。郵便も新聞も届きませんし、電気、電話はもちろんラジオすらありませんでした。電気が届くようになっても明かりはランプを使っていました。

昔は霧ヶ峰でも遭難する人が多く、雪崩、吹雪、濃霧、落雷、寒さなどで死亡する人がいました。ころぼっくるに泊まる予定の6人の人たちが行方不明になり、そのうち1人が凍死したこともあります。ころぼっくるは、登山者の安全を守るための避難小屋の役目をしてきたのです。・・・


4. 手塚さんは、山小屋を自力で建てて、住み、経営しつつ、自然環境保護にも力を尽くし、山を愛する文人たち ―−例えばフランス文学者の故串田孫一―との交友を深め、自らも山や高原や、そこでの暮らしについてのエッセイを書き、すでに10冊以上の著作を山と渓谷社から出しています。


これらの本を妻の母と妻が愛読しており、また手塚さんと私が日本エッセイストクラブの会員同士というご縁もあって、このあたりに車を出すときには、ヒュッテに寄って、手塚さんに会っていろいろとお喋りをする時間を楽しみにしていました。酒好き、とくにウィスキーが好きでした。
諏訪市に自宅があるので、しばらく前にヒュッテは息子さん(やはりスキーの名手)が責任者となり、宗求氏は引退しましたがそれでもこの土地を愛し、ヒュッテに滞在する時間が多かったようです。
厳冬の時期に、娘夫婦と4人で泊まったこともあります。
私より妻の方が愛読者兼ファンで、山小屋の椅子のために手製のクッションをつくって持っていったこともありました。


今年の夏は何かと忙しく、このあたりまでドライブする時間がなく過ぎてしまいました。
久しぶりに、訪問してお会いするのを楽しみにして、車山を下りて、湿原を歩いて、軽いお昼をとるために小屋に到着。週末の昼時で忙しそうにしている息子さんに、「いまお父さん居られますか?」と訊いたところ「先月、亡くなりました」という返事で、一瞬絶句しました。

信濃毎日には大きな記事が出たようですが、私は購読していないので「知りませんでした」と返事するのがやっとでしたが、「皆がそうで、びっくりされます」という答でした

享年81歳。
山小屋に小さな分骨を供えてあるというので、中に入れてもらって、御線香をあげてきました。

それにしても、私たちの世代になると、半年も会わないと、何が起こるか分かりません。
「実は亡くなりました」
という返事は決して珍しくありません。
「お互いにこれが最後になるかもしれない」という気持ちをどこかに持って接するという覚悟のようなものが必要な年齢になってきました。