再びアメリカの司法制度と連邦最高裁

1. 我善坊さん、えまのんさん、柳居子さん、まことに有難うございます。
皆さんが私と同様に、「国民審査」に悩んでいる様子が伺われ、たいへん参考になりました。

ご質問の「国民審査を有効にする方法」は私もよく分かりません。
ただ、今回も(少し硬くなりますが)参考になるかどうかはともかく、アメリカの、
(1) 法についての考え方
(2) 連邦最高裁の裁判官について
の2点について、主として樋口東大教授の『はじめてのアメリカ法』を参照しつつ報告します。


2. まず(1)ですが、要は、いかに日ごろ、司法が国民に馴染んでいるか、の問題で、
アメリカの特徴は以下の通りです。


(1) 法曹一元の制度――「裁判官、検察官、弁護士、さらにロー・スクールの教授を含めて、すべて弁護士からキャリアを始めるという制度」
(2) 英国の伝統にならって、コモンロー(判例法)の国であること。即ち
 「アメリカでは、まず条文ありきではなく、判例(先例としての判決)こそ法だと考えられている。
法というルールも具体的な現場(事件・事例)から発生し・・・それを作った原動力は普通の私人である当事者であり、その訴えについて、陪審や弁護士や裁判官が耳を傾け、(略)必死に議論する中から「法」が生まれます」


(3)したがって
アメリカでは、法を語ることは自由を語ること」であり、「法が社会をよくするための道具であるという点こそ、アメリカ法の最大の特色といえるように思います」

「ひるがえって、わが国では法を語ることは規制を語ることではないでしょうか」

3. 上の(2)について補足します。
前回、1954年の歴史的な「ブラウン判決」−公立の学校での白人・黒人分離を違憲とした ――に触れました。
この判決は正式に「ブラウン対トピカ教育委員会」という表記です。
本件に限らず、連邦最高歳の判決はすべて実名です。
その後の、報道でも記録でも大学での教材でももちろん実名のままです
(ところが、日本の訴訟が法律の教材に使われる場合は、「甲と乙」のように表記されて実名表記がされません、と樋口教授は補足します)


ブラウンというのは、このクラス・アクション(集団訴訟)を起こした原告(すぐ近くの小学校が黒人を入れないために娘が遠くに通学しなければならなかった黒人の父親)の名前です。

判例こそが法になる」 → もちろん無名のブラウンという私人が「法を作ったわけではなく、きっかけの1人にすぎません。
しかし、(ブラウンの名前は、この歴史的な判例とともに)永久に残るでしょう」→
彼には「アメリカ憲政史上永遠に名前を残すという名誉が与えられました」

・ ・・・これが「法が、国民とともにある」という意味だろうと思います。


4. 次に、連邦最高裁の裁判官について、それがどれだけ国民の注目を集めるかについてです。

(1)9人からなり、日本のような「国民審査」はなく、大統領が指名し、上院の「同意」を得る必要がある、と前回書きました。

(2) 現在9人のうち、黒人が1人、女性が2人います。
黒人のトーマス判事のときは、セクシャル・ハラスメントの疑惑で、証人が議会に呼ばれたりして、結局、上院で52対48の僅差で承認されましたが、マスコミを大いに騒がせました。

(3) 少し長くなるのは、いちばん新しく就任したソトマイヨールという女性の最高裁判事の話です。
2009年、オバマ大統領の指名により、ヒスパニック系で最初の最高裁入りです。


以下は、オバマが自ら指名したソトマイヨール氏(当時55歳)を紹介する記者会見での、長い演説のごく一部です

(日本語は、樋口さんの本からの引用です)

・ ・・・「憲法が大統領に与えた多くの責任の中で、最高裁の裁判官を指名することほど重要で大きな意味を与えるものは少ないのです。
(略)
・ ・そこで、さまざまな人々の助言を受けた上で私が指名することにしたのは、ニューヨーク州ソニア・ソトマイヨール裁判官です。


・ ・(以下、彼女の経歴を述べ、賛辞を述べた上で)

しかし、これらの貴重な経験と並んで、彼女自身の生い立ちがユニークで重要です。
彼女は、ヤンキース・スタジアムから遠くないサウス・フロンクス(注:荒廃した貧民街で有名なところ)の公営アパートで育ちました。
自然にヤンキース・ファンになりましたが、そうだからといって上院の他チームファンが欠格事由にしないでほしいと思います。
ソニアのご両親は、第2次大戦中にプエルト・リコからNYへ移住してきました。
お父さんは工場で働き、3年生までしか学校に行っていませんでした。英語も話せない人でした。(略)
ソニアが9歳のときにお父さんは亡くなりますが、その後、お母さんは週6日看護婦として働き、彼女と弟さんを育て上げました。2人ともここに来ていただいています。
ソニアのお母さんは、その地域で唯一百科事典を子どものために購入し、カトリックの学校に子どもたちを通わせ、いい教育さえあればアメリカではすべて不可能なことはないと信じていました。
ソニアはおかげでプリンストン大学に入る奨学金を得て、トップの成績で卒業し、イェール大学ロー・スクールに入るとイェール・ロー・ジャーナルの編集者(注:優秀な学生への栄誉で、オバマ自身、ハーバード時代に編集長だった)にも選ばれ、今日に至るのです。


その道のりの中で、幾多の困難に出会い、それらを乗り越えて、かってご両親が夢見たアメリカン・ドリームを生き抜いたのです・・・・・」

「演説はソトマイヨール裁判官が8歳で小児麻痺にかかったことなど、もう少し続くのですが、いずれにせよ、これを直に英語で聞いた聴衆の間には感動を呼んだことでしょう」と樋口教授は補足します。


5. 彼女の話ですっかり長くなってしまったので、この辺で終わらざるを得ませんが、「国民審査」を考える前に、どれほど、司法が国民に身近になりうるか、という話をしたかったのです。

ちなみに、彼女に対する上院の投票は、「賛成68、反対31」でした。