1. 前回に続いて映画「ハンナ・アーレント」です。
フェイスブック経由コメントを頂き、有り難うございます。すでに「京都シネマ」でも上映している由。私も12〜14日今年最後の京都滞在で映画館の前まで行ってきました。客席100強の小さい・それでも3つある京都シネマの最大の部屋で上映しています。
岩波ホールは13日に終わりましたが連日、切符を買う長い行列が続き1時間近く前に行かないと満席になって入場できないという状況・・・こんな硬い映画が、なぜこれほど日本の観客をひきつけるのか?
4千円もする「エルサレムのアイヒマン」というアーレントの訳書(みすず書房)も売れ行き好調の由。
(もっとも、岩波ホールの上映が約50日で日に3回、満席としても総勢5万人以下、ほんの一握りではないか、という意見もあるでしょう)。
東京新聞は、「個としての声が上げづらい世の中だから〜」「大勢と異なる意見を発表し、脅迫や中傷を受けても声を上げ続けた人生への共感・・・」と解説し、
「“凡庸な悪”について」と題して社説でも取り上げました。
私にはよく分かりませんが、もっと単純ではないかという気もします。
現代人は、日々溢れかえる情報(私のブログのような押しつけがましいソーシャルメディアの奔流も含めて)に疲れて、少し距離を置いて、時にひとりで「考えたい」と秘かに願っているのではないか。
2. 私たちがアイヒマンにならないためには、「ひたすら考えよ!」とアーレントは語り掛けます。それが唯一、人間である証なのだ。
映画には恩師ハイデガーが教室で学生に語る短い場面も出てきます
「思考(ドイツ語で“denken”)というのは孤独な作業だ」と彼は語ります。
「思考しても人生の英知など得られない。役に立たないのだ。思考しても世の中の謎が解けるわけではない。行動する力を与えられるわけでもない・・・」
「(しかし)我々は思考する。我々は考える存在だからだ」
(因みに、700円の岩波ホールの映画プログラムを私が高く評価するのは、シナリオが載っているからです。他の映画館のプログラムには派手な写真満載ですが、シナリオはありません)
3.ということでシナリオを読みながら書いているのですが、何と言っても映画の圧巻は最後に、非難・中傷・脅迫を無視していたハンナ・アーレントがついに反論することを決意し、大学での公開講義で学生に向かって語りかける8分間の場面です。
インタビューで「普通の監督なら,これほど長時間のスピーチを観客に見せ続ける危険は冒さないと思うが?」という質問に答えて監督はこう言っています。
「スピーチに向かって徐々に物語を進めながら、あたかもレンガを積み重ねていくように、アーレントの複雑な思想を理解しやすくするきっかけを与え、観客が“悪の凡庸さ”を理解できるようにしました。知的な意味でも、エモーショナルな意味でも、スピーチは映画全体のクライマックスになっています」
この場面は特定のスピーチを抜粋したものではなく監督と脚本の共同作業だそうですが、以下、アーレントの声を一部引用しましょう。
「ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。
人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです・・・・
“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける能力です。
私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように・・・・」
悪は(例えば粛清や公開処刑のような)は、「怪物」だけの行為だろうか。
凡人が起こす悪とは何か?・・・私たちも、日々伝えられる悪(ヘイトスピーチでもシングルマザーの苦境でも)を見過ごし・忘れることで加担しているのではないか。
観客はそれぞれ、どういうことを考えながらアーレントの声を聞いたでしょうか。
4.私のような凡人はシナリオを読み返しながら、そんな問いを発しながら、アーレントや他の哲学者の本を拡げるぐらいしか出来ないので、
最後に、些細な感想を幾つか補足することで少し話題を変えたいと思います。小説も映画も「細部・些細なこと」にいちばんの魅力があると考えるものですから。
(1)8分間の講義場面は冒頭、大きな階段教室で、教壇に立ったアーレントが、学生に向かって「今日だけ、早々に吸うけど許してね」と言って煙草を吸う場面から始まる。ヘビー・スモーカーの彼女のこの言動が、本人の緊張を伝え、場面の緊張も高めて、実にうまい出だしだと思う。
(2) アイヒマン事件の以前、小さな教室での授業と学生のやりとりのシーンも映される。
授業のあとで「アメリカの第一印象は?」と訊かれて
煙草をゆっくり吸い、一呼吸置いて、「パラダイス」と答える場面も印象に残る。
亡命して18年も無国籍(パスポートが取れない)だった彼女の状況と、1960年代初めの(まだ、ある意味で未来に向かって輝いていた)アメリカへの想いが伝わってくるようだ。
(3)裁判傍聴の原稿を雑誌「ニューヨーカー」の編集長と話合う場面。
編集者が原稿の箇所を指しながら「ギリシャ語かな?」
アーレント「“存在”を表す言葉なの」
「読者には分からないよ」
アーレントが「学ばなきゃ(They should learn)」とさりげなく切り返す。
―――彼女は「自信過剰で傲慢」と評されますが、こういうやり取りもその点を出したかったのかと思う。ただ、私としては、「このぐらいのギリシャ語は、(「ニューヨーカー」の読者なら)知っててほしいな」という素直な希望と受取りました。“study”ではなく“learn”は「ギリシャ語を勉強すべき」ではなく「言葉の意味ぐらい知ってほしい」という軽い意味で言っているように思います。
(4)紙数がなくなりましたが、彼女のブルックリンのアパートで何度も開かれる小さなパーティで交わされる議論の様子も面白いし、何より、マンハッタンの夜景―夜に浮かぶア―ル・デコのクライスラービルやイーストリバーやマンハッタンブリッッジのつり橋・・・等々―の映像も楽しく・懐かしく眺めました。