1.前回のブログに岡村さんと山口さん、3月25日付には柳居子さん、何れも頂いた貴重なコメントに厚く御礼申し上げます。
何れのコメントにもフォローさせて頂きたい事ごとがありますが、今回は残念ながらお礼だけに留め、もう1カ月以上前になる、ロンドンの話を続けます。
10日間の英国滞在中、オペラと芝居を観たという報告です。
ロイヤルオペラを観るのは2年半ぶりですが、出し物は「トスカ」で、プラシド・ドミンゴの指揮が話題でした。
ニューヨークのメトロポリタン・オペラに比べて、観客の拍手や「ブラボー!」が少ないことを再認識しました。出来栄えの問題ではなくて、やはり「オーバー・ステイトメント(大げさに自己表現する)米国と「アンダー・ステイトメント(万事控え目に言う)」英国の、文化の違いが大きいでしょう。
2.今回はオペラより芝居の話をしたいと思います。
シェイクスピアの初期の傑作「ジュリアス・シーザー」です。ロンドン塔のテ―ムズ河を挟んだ対岸、タワー・ブリッジの袂にあるブリッジ・シアターで上演されていて、時代を現代に移した斬新な演出で話題になっています。
昨年の夏にニューヨークで初演されたときは、ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が金髪、赤い帽子をかぶって、まさにトランプそっくりの恰好で登場したことで、彼の支持者の怒りと攻撃が全米に拡がりました。
約2千年前、シーザーは、ローマの共和制を廃して自らが皇帝になろうとしているという怖れを抱く人たちの手で、暗殺されました。
新演出による芝居はトランプの暗殺を示唆するのかという訳で、劇団には脅迫状やヘイトメールが山のように届きました。幸いに実際の暴力行為までには至らなかったそうです。
たしかに、少しやり過ぎの面もあるかもしれません。
しかし、芝居の狙いは、トランプそのものよりも彼に代表される、現代」の「ポスト真実の政治」に対する懸念にあると言えば、その意図は理解と共感を呼ぶのではないでしょうか。
因みに「ポスト真実の政治」とは、「政策の詳細や客観的な事実より、個人的な信条や感情へのアピールが重視され、世論が形成される政治文化のこと」とウィキペディアにあります。
3.というのも、この芝居は、古代ローマ市民社会の「ポピュリズム」を鋭く描いているとかねて指摘されており、それはシーザーが暗殺されたあと、彼の遺体を前にして、ブルータスとアントニウスが、集まった市民に向かって演説をする、その好対照がシェイクスピアの作劇の妙として評価されています。
シーザーに息子のように愛されたブルータスが、なぜキャシアスの誘いにのって暗殺団のリーダーになったのか?
ブルータスは理詰めに諄々と説明します。「私もシーザーを誰よりも愛していた。しかし私は、自由と民主主義が共和国ローマとその市民を守ることを、私情よりも大切に考えるのだ・・」
市民は歓呼してブルータスを称えます。
次いで壇上に上がったアントニウスは、まさにポピュリズムを象徴する存在として描かれます。理性よりも感情に訴えます。生前のシーザーをいかに君たちは愛していたか、シーザーもまたいかに君たちを愛していたかを・・・・言うことはそれだけです。
そして、
「もっとも、ブルータス君は、彼シーザーが野望家だったと言われる。
而して、そのブルータス君は人格高潔の士であります」
という同じ言葉を何度も繰り返して、エリートかつ知性の持ち主ブルータスと、大衆である一般市民との違いを際立たせます。
そして、自分のことは、「能力、弁舌、説得力、何一つ持たない一介の武骨な野人であり、ただ、いまは亡き友シーザーを愛するだけ」と訴え、最後には「諸君にも涙があるなら、いまこそ流す用意をするがよい」と扇動します。
そして、これを聞いた群衆の態度は一変します。「暴動だ。ブルータスの家を焼き討ちしよう」と、あっと言う間に暴徒と化していきます。
――3幕2場のこの場面は、この劇の白眉といえる、もっとも有名な箇所です。
2017年のトランプ登場とともに、ポピュリズムや「ポスト真実」の風潮が懸念されています。
その中で一部の人たちが、あらためてシェイクスピアの芝居、その力や怖さを脳裏に浮かべ、現代に置き換えた演出による上演を実現させたのでしょう。
4. いささか硬い話になりましたが、演出には他にも面白い仕掛けが幾つもありました。
(1) シェイクスピアの脚本に出てくる女性は、シーザーの妻とブルータスの妻だけで、暗殺者はむろん男性です。しかし今回は、ブルータスと並んで主要な暗殺者であるキャシアスは女性が演じている。
(2) 私が座席に座ったのは、開演の7~8分前でした。舞台の上で、ロックバンドが大音響で演奏していたので、これは何事か、シェイクスピアの芝居の前にこんな騒がしい余興をやるのかと驚きました。
ところが定刻になると、そのまま芝居が始まり、彼らは舞台から降りて、脚本に登場する「市民」を演じて、せりふを口にします。
(3) ロンドンで芝居を観るのは実に久しぶりです。
ブリッジ・シアターは、円形劇場になっていて、舞台と土間が中央にあり、観客席はそれを四方から囲んで座ります。
他方で、立見席もあって、どこで立って見るかというと、この土間に立って舞台を見ることになります。
即ち、(2)で述べた、ロックバンド転じた、芝居上の「市民」たちと合流してしまいます。台詞はもちろんありませんが、彼らもいわば役者と一体になってしまいます。
芝居の値段ですが、私は上から2番目の席で75ポンド(約1万1千円)でしたが、立見席は25ポンドといちばん安く、そのせいもあるのか、中高生らしい観客が多く来ていました。
5.ということで、現代によみがえるシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」、まことに迫力のある芝居でした。
英語の台詞はほとんど聞き取れず、ちんぷんかんぷんでしたが、英語の原本も中野好夫訳(岩波文庫)もしっかり読んできたので、この日は舞台を大いに楽しみました。