2019年の出来事――ローマ教皇の来日を思いだして

1.一年を振り返って,ブログでも取り上げましたが、京都での茶事が私にとってそこそこ思い出に残る出来事でした。

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 私事ながら、使われた茶道具が先年死去した長姉の遺品だったことに意味がありました。三重県松坂で長年お茶を親しんでいたので、京都の従妹に引き取ってもらいました。

 それなら、これらを使ってお茶を頂きながら亡き長姉の思い出を語ろうという従妹の配慮で京都に招いてくれたもので、その心遣いが嬉しかったです。

 長姉はお茶もやりましたが、熱心なカトリック信者で、若い時に東京四谷にあるイエズス会聖イグナチオ教会で洗礼を受けました。今回の、イエズス会から初めて出たローマ教皇の来日を知ったら、さぞ喜んだだろうと思います。

f:id:ksen:20191202092030j:plain2. 今年最後のブログは、この教皇の来日についてです。

 ローマ教皇は約13億人の信徒をかかえるカトリック教会の指導者であり、バチカン市国の元首でもあります。現教皇は2013年に就任。同年タイム誌は、バチカンの改革や弱者との接触に精力的に取り組んでいるとして、「今年の人(Person of the Year)」に選びました。ブログでも取り上げました。

https://ksen.hatenablog.com/entry/20140102/1388623681

 1936年アルゼンチン生まれ、イタリア系移民の息子。庶民派で、神学者だった前々教皇・前教皇と異なるキャリアを持ち、質素な生活とスラムを定期的に訪れるなど社会問題への関わりで知られます。「健康状態が十分でなく実現しなかったが、神父になり、最初に赴任地として希望したのが日本だった」そうです。  新大陸から初めてのローマ教皇で、13世紀の聖者アシジのフランシスコを敬い、その名前を教皇として初めて選びました。

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3. 今回の来日は11月23日~26日の4日間、長崎・広島を訪れ、祈り、語りかけまし

た。東京でミサをあげ、さまざまな人、とくに苦労する人たちに会いました。

 11月27日付日本経済新聞で小林編集委員は「来日は何を残したか。痛感するのは、夢や時代の精神を人々に呼びかけることの大切さと難しさ。そして分断された世界をつなぎとめ、未来を語る国際的なリーダーシップへの強い渇望だ」と書き、「理想語らぬ政治に危機感、そんな状況だからこそ夢を語る教皇の言動に関心が集まる。安らぎを保障し、理想の世界を示すという本来の役割を政治が果たしていないのだ」と訴えました。

 12月1日付東京新聞では宇野重規東大教授が、「理念の価値教えた教皇」と題して、「教皇が繰り返し強調したのは苦しみや試練に耐える人々に寄り添うことであった。迫害を受けてきたキリスト教徒はもちろん、原爆被害者、東日本大震災の被災者、さらには日本で苦労している難民留学生と言葉を交わすことに意を注いだのは、来日の目指すところを示している」と書きました。

 帰国後の27日、バチカンで行われた恒例の一般謁見で、全世界から集まった信徒たちに日本訪問について語りました――「原爆の消えることない傷を負う日本は、全世界のためにいのちと平和の基本的権利を告げ知らせる役割を担っている」と。

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4. 長崎と広島では、長い祈りのあと聴衆に語り掛けました。

(1) 長崎の爆心地公園では、最後にアシジの聖フランシスコの平和の祈りを引用しました。

――「ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でない方もおられることでしょう。それでも、アシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています」、そして一部を引用しました。

――「主よ、私をあなたの平和への通り道(Make me a channel of your peace)としてください。憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところに許しを、絶望があるところに希望を、悲しみがあるところに喜びをもたらす存在としてください。」――

(2) 祈りはさらに、「主よ、私が多くを求めるのではなく、人に慰められるよりも人を慰めること、人に理解されるよりも人を理解すること、人に愛されるよりも人を愛することを、求めさせてください~~」という言葉が続きます。

 いままでも、マザー・テレサを始め著名な宗教家や政治家が引用や朗誦を行い、公共の場で聴衆と共に唱和するなどして有名です。

f:id:ksen:20191225085416j:plain マザー・テレサは この祈祷文を毎朝唱え、1979年のノーベル平和賞授賞式においても聴衆に共に唱和することを呼びかけました。

(3) 聖歌になっていて、YouTubeで聴くことができます。短い・美しい曲です。 長崎のスピーチのあとでも歌われました。

20年前のウエストミンスター寺院でのダイアナ妃の葬儀でも歌われました。

https://www.youtube.com/watch?v=daGWdbrSGBM

この歌のことも2年前のブログで取り上げました。

5. 実は、茶道とカトリックは意外に縁が深かったという話があります。

そのことを野上弥生子三浦綾子も書いています。私のお茶の先生から頂いた葉室麟の『弧篷のひと』という小説は千利休の高弟だった小堀遠州の一生を描いた作品です。

f:id:ksen:20191225144732j:plain 本書で著者・葉室麟は、

(1) 千利休には、かってキリシタンではないかという噂があった(彼の妻もそうだと言われる)。

(2) 利休の七哲と呼ばれる高弟には、キリスタンが多かった。蒲生氏郷高山右近はキリスタン大名として名高いし、細川忠興の妻はガラシャ夫人である。古田織部が指導して作った織部焼の茶碗には、しばしば十字のクルス文が施された。

(3) 利休の考案したにじり口は、キリスタンの教えにある「狭き門より入れ」に合わせたのではないか。お濃茶を回し飲みするのもミサの所作と似ているといえる、

として、「茶の湯の亭主は、司祭のごとく儀式を司って客を聖なる境地に導く役割を果たしているとも見える」と書いています。 

(4) 葉室氏の指摘がどこまで当たっているかは素人の私には分かりません。しかし長姉が熱心なカトリックで、お茶も真面目にやっていたことは事実です。

 姉が洗礼を受けるにあたっては、13歳のときに広島で被爆した体験も大きかったと思います。1945年8月6日、女学校の同級生は勤労動員に駆り出されて、参加した全員が被爆死しました。彼女は躰の具合が悪くて家で寝ており、奇跡的に助かりました。

 私が昔京都で働いていたころ、時折、松坂の姉の家を訪れてお茶を頂くこともありました。今年は京都の従妹の家で、姉が生前愛した茶道具を眺めながら、生前の彼女が松坂でひとり点てたお茶を飲みながら広島での少女時代を思い出していたのかなあと考えました。

 それでは皆様、良いお年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

英国の総選挙、保守党の大勝利とエコノミスト誌

1.先週は、忘年会がひとつ、上野の都美術館内のレストランであり、夫人連れで集ま

る場所としては、なかなか良いアイディアだと思いました。ロンドン・コートルード美術館展の最終日の前日でした。

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2.私のブログは週1回なので、今回は1週間ほど前の出来事、12日の英国総選挙を振

り返りたいと思います。

 エコノミスト誌も週1回発行で、自国の出来事だけに、2週続けて大きく取り上げました。

(1) まず選挙前の「論説」で、与党の保守党も最大野党の労働党も支持できないとして、自由民主党(注:名前は同じでも、日本の自民党とは中身はまるで違う)支持を明確に打ち出しました。

(2) 支持の理由は同党の「EU残留」の主張と、気候温暖化対策・社会保障などの施策でも「本誌創刊の基盤であるリベラリズムにもっとも近い」という点にあります。

(3) さらに言えば、保守党の有利は選挙前から予想されていた。だからこそ、少しでもチェック&バランスを実現することが大事だという姿勢です。

(4) 結果は、保守党の予想以上の圧勝に終わりました。労働党自民党も惨敗しました。エコノミスト誌の失望がいかに大きかったか想像に難くありません。

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3.しかし結果如何に拘わらず、同誌のような「クオリティ・ペーパー」が、選挙前に、

与党に対抗する第三党を明確に支持して立場を鮮明にしたことは、英国では当たり前でしょうが、評価されて然るべきと思います。

日本ではメディアが「選挙で本誌は~党を支持する。何故なら~」と、立場を鮮明にすることはないのではないか。そんなことをしたら、即座にSNS上に下らぬ中傷記事があふれるのではないでしょうか。

 まず自分の意見・立場を明確にする、同時に「自分と違う意見」があることを認めて、お互いがフェアに・冷静に「ディベイト(論争)」するという文化はこの国には少ないのではないか、そんな気がしてなりません。

4.保守党圧勝の理由はご存知の通りです。

(1) 国民投票から3年半、「BREXIT」をめぐる迷走に国民が飽き飽きしていた。

 そこへ保守党がジョンソン首相による「離脱実現」で一本化し、その単純明快な主張で有権者に訴えた。

(2) 他方で労働党は党首の不人気もあり、政策も大衆受けする明快なものではなかった。「離脱」派の支持層も抱えていて、「残留」で一枚岩になれなかった。

この結果、従来の支持層が多く保守党に鞍替えした。

(3) この点は、長年にわたる労働者階級(総じて、低学歴・中高年、白人男性の肉体労働者)の不満が根っこにあり、たまたまそれが「EUからの離脱」をはけ口に保守党の支持につながった。

 因みに、英国在住のブレディみか子さんという最近活躍中の女性も書いていますが、

「この層は、政治的にもともとそんなに進歩的ではない。労働党を支持してきたのも別にリベラルとかいう理由ではなく、単純に自分の利益のために戦ってきたのだ。」

EU離脱は文化闘争なのではない。重要なのは労働者階級の価値観ではなく、生活水準なのだ。」

 だからこそ、数十年にわたって自分たちは無視され・疎外されてるという不満が、「もともと労働党の支持が強かったイングランド北部や中部の労働者階級の街でEU離脱派の票が上回るという事態を招いた」のであり、今回の選挙で「ジョンソン首相はこの層を労働党から奪うことを狙って」、まさに成功したと言えるでしょう。

f:id:ksen:20191216095148j:plain5,こうみてくると、今回の結果は2016年のアメリカ大統領選挙と似ています。

(1) アメリカでは、長年民主党の支持基盤だった東部・中西部の労働者階級が共和党に鞍替えしたことがトランプ勝利の大きな要因になった。

 今回の英国の選挙も同じで、その結果、本来、富裕層やビジネスエリートを支持基盤とする保守党(アメリカは共和党)は、伝統的な労働者層を取り込むことで内部に2つの階層を抱え込むことになった。

(2) 他方でアメリカの民主党、英国の労働党は、一部のインテリに加えて若者や女性、

少数民族貧困層を主体にして、より左傾化した。

(3) その結果、

・保守かリベラルかという区分けが明確でなくなった(ブレディみか子さんが「文化闘争や価値観の問題ではない」と言う所以)。

・中道が埋没して、右と左が両極化した(エコノミスト誌が支持するリベラルな中道路線の「自由民主党」の支持が伸びない)。

6. 選挙制度の問題もあります。米国は州をベースにした選挙、英国は全てが小選挙区制、かつ過半数でなくても単純1位で当選する。

(1) 2016年のアメリカ大統領選挙であれば総得票でヒラリー・クリントンが3百万票

も上回ったにも拘わらず、30州を確保したトランプの圧勝となった。

 英国では保守党プラス「離脱党」の総得票は全得票の46 %弱に過ぎないにも関わらず、大勝利となった(650議席の385と6割弱を獲得)。

(2) この結果、アメリカではカリフォルニアやニューヨークが、英国であればスコット

ランドや北アイルランドが割を食う、その結果、国の分断が深まる。

f:id:ksen:20191214135645j:plain7. これにさらに、トランプとジョンソンという特異な人物がリーダーだという点も加わる。両者ともに、政治家にもっとも必要とされるのは「責任倫理」であるとするマックス・ウェーバーの理念を体現するような人物では全くない。

8 .というようなことが、今回の選挙から浮かび上がってくる構図ではないでしょうか。

 ある友人から、「民主主義とか自由主義という、世界の指導原理だった思想に疑問符が付いたような最近の世界の動きに、不気味なものを感じます」というメールを貰いました。

 その点は多くの人が感じていることだろうと思います。

 ただ他方で、今回の英国総選挙を見て以下のようなことも考えました。

(1) たとえ少数でも、悲観的でも(選挙直前のエコノミスト誌の表紙と論説は「クリス

マス前に英国が見る悪夢」と題しました)、

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たとえ敗れても、自らを毅然として主張するメディアは健在であり、それを中傷したり、脚を引っ張ったりする風潮はない。

(2) 選挙によって、良くも悪くも社会が変わるであろう。

 EU離脱をめぐる混乱はまだ続くだろう。しかし、政治家も変化を意識して対応していくことが求められる(保守党は新しく抱えた労働者層を意識した政策を入れていくだろうし、労働党自由民主党は反省に立って従来の支持層の奪回を真剣に考えるだろう)。

(3) 対して、この国では、選挙で何かが変わるという期待が一向に持てないように思う

のですが、どうでしょうか?

 支持層の多数が従来の長年の支持政党から別の政党に鞍替えするというような事態が、将来日本でも起こり得るでしょうか?

 

2019年京都の秋と出会った人たち

1.朝の散歩の東大駒場キャンパスでみる黄金色の銀杏並木もそろそろ終わりです。掃除がたいへんですね。職員が動員されている光景も見ました。

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 さて前回に続いて、今回もまだ京都の話です。

 中村哲氏のアフガンでの悲劇について、岡村さんが「7日に三条大橋で追悼のキャンドル・ヴィジルがあって参加した」と書いてくださいました。「片手にろうそく、片手に中村さんの顔写真と「武器ではなく、命の水を」と書いたプラカードを持って、川風が冷たく感じるなか立ちました」とあります。

 海外放浪の青年時代にアテネユースホステルで、難所のカイバル峠を越えてどうやってアフガニスタンに行くか話し合っている人たちの会話を聞いたことがあるそうです。ひょっとして、自分もついて行ったかもしれない、そうしたら運命が少し変わったかもしれないと、若い頃を思い出されたようです。

 海外で様々な人に出会った体験が、中村さんへの関心と敬意をいっそう高めるということがあるのかなと、読みながら思いました。

 牧野さんという、昔京都で社会起業家支援の活動を一緒にやった女性がいます。当時は同志社の大学生でしたが、一時期フィリッピンNGOで活動したことがあり、そのことが影響しているのか、フェイスブックに熱心に書いています。10日の「クローズアップ現代中村哲医師、貫いた志」を教えてもらい、見ました。いい番組でした。https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4361/index.html

 現地で4年一緒に働いた方の言葉が印象に残りました。

「中村先生が現地の人たちに対して威張った姿を見たことがない。自分たちの活動を誇らしげに語った姿を見たことがない。常に現地の人たちに敬意を払って~~、家族の人たちにも心を砕いて作業を進められていた~~」

「私は、あの方の活動、生きざま、そのものが平和だったような気がします」

f:id:ksen:20191202123539j:plain2.私自身は、前回書いたように京都の茶事に出て、そのあと夜遅くホテルに戻ってロビーで近くの割烹の女将と京都検定1級の友人と2人でワインを飲んでお喋りをしました。翌日は朝、ホテル近くの「イノダ」に行って珈琲を飲み、いろんな方に会いました。京都の友人たちに会うのは楽しみです。

 近くの京都御苑もぶらぶら。まだ紅葉がきれいで、京都迎賓館が一般公開をしていたのを拝見して、家人と二人でのんびり過ごしました。

 京都は、観光客の増加で迷惑している人も少なくないでしょう。

 他方で、海外からの観光客との接触を楽しんでいる人たちもいます。この日会った割烹の女将もその一人で、もともと明るく、人の応対が好きで、面倒見がよい。京料理を食べたいと飛び込みで恐る恐るのれんをくぐる外人客がいる。家族連れだったり、新婚旅行中だったりする。そういう時の、彼女の明るい笑顔と接し方は秀逸です。一見さん大歓迎。夏なら浴衣を着せてあげたり、常連が多い店なので彼らの会話の輪に入れたりする。忙しいと、常連も一緒になって浴衣を着せるのを手伝ったりする。お客さんは大満足で、青い眼も黒い眼も入り混じって、賑やかな雰囲気のお店です。

 もう一人、イノダの常連の柳居子さんのお店にも外国人観光客がよく来るようで、ブログに書いておられます。顔をつるつるに剃ることを他国の床屋ではしないので、驚

いて、感動して、これまたSNSで発信する。

f:id:ksen:20191202120424j:plain4.こういう思いがけない経験が海外旅行のいちばんの楽しみではないでしょうか。名所旧跡を訪れて、良い景色を眺めて、食べ歩きをして(テレビの海外紀行番組はこればかりのようですが)というお決まりのツアーではつまらない。ちょっとでも、その土地の人たちや暮らしを知りたい、話をしたい。

 京都の、この割烹と理髪店はまさにそういう期待を満たしてくれるところです。

 そして、迎える方でも、異国の人たちと接することで、気が付かないうちに何かが

変わってくる。少なくとも異国に関心をもってくる。「こないだ髭を剃ってあげたら喜んでいた、あの人の国だ」と思えば、そこでの出来事が良いにつけ悪いにつけ無関心ではいられなくなる。

 そうなれば、中村哲さんのアフガニスタンでの悲劇を知っても、いままで以上に無関心ではいられなくなる。

 何といっても岡村さんのように、海外を放浪する経験は大事です。だからこそ彼は中村さんの追悼のヴィジルに参加して、いろいろ思いだして、「ちょっとセンチになった」と書いています。

 しかしこちらから行くだけではなく、京都のごく庶民的な(失礼!)割烹や床屋さんに来てくれる人たちとの交流、これも大事だなとあらためて思いました。 

5.「イノダ」に行って、朝から常連さんが同じ席に座っている光景もいいものです。

 血のつながりもない、職場の上下関係もない、学校が一緒だったというわけでもない、「イノダ」を出たら何の利害関係もない人たちかもしれない。この繋がりは、アメリカの社会学者が言いだした「弱い絆の強さ(The strength of the weak ties )」ではないでしょうか。

そういう文化になじんでいる人たちだから、異国のお客も違和感なく受け入れるのかもしれない。そんなことを考えました。

f:id:ksen:20191202082141j:plain6.「お茶の文化」や「一期一会の精神」と多少関係があるかもしれない、とも思いま

した。

 それにしても茶事で頂いた懐石はおいしかったです。「三友居」という茶懐石の仕出しの店です。正式の茶事では、懐石が先でお茶はその後ですが、今回は「前茶」といって懐石は夕食時になり、しかも亭主側も入って無礼講で、作法も知らず「三友居」の主人が料理を運んできては説明してくれて、勉強になりました。

 それでも、これもあらかじめお茶の先生に聞いていたので、最初にご飯とお椀が出たときは両方のふたを取って合わせて右手に置くだの、最後は皆が一斉に音を立てて箸をおく「箸おろし」の作法などを知ったかぶりをして、主人から褒められました。

 この茶懐石の仕出しというのも、京都(だけではないが)の文化ではないでしょうか。

f:id:ksen:20191201165829j:plain「最近の日本語でいえば、ケータリングやなあ」とつい言ってしまいましたが、なかなかどうして歴史が違うのでしょう。

 先日、英国留学の回想記で、現天皇(当時親王)が「英国の特徴として感じたことに、伝統と革新の共存をまず第一にあげている」と書きました。

 京都がまさに似ているなと感じます。京都伝統の「一見さんお断り」なんて言わないで、飛び込みの外国人を受け入れて自分も一緒になって楽しむのがこの街の「革新性」とすれば、

 いまも続く茶事と仕出しの茶懐石の店は「伝統」でしょう。

 そういえば女将と一緒にワインを飲んだ検定1級の友人は、自宅の古い町家を必死に維持して、このたび指定文化財になり、9月には一般公開もしたそうです。これもまた「伝統」でしょう。

 たまたま昨日お昼の忘年会で隣に座った女性(職場の同僚の奥様)から、「川本さんのブログは京都でもお寺の話が出てきませんね」と言われました。そう言えば私は、どこの土地に行っても人間とその暮らしにいちばん興味があるようです。

 京都の人たちとのご縁に本当に感謝しています。

 

中村哲氏追悼と、京都での気楽な茶事のこと

1.今回はもっぱら、京都での茶事を書くつもりでした。

 ところが、4日アフガニスタン人道支援に長年取り組んできた中村哲医師(NGOペシャワール会の現地代表)が銃撃され死亡した、という衝撃的なニュースが飛び込んできました。

 そこで、京都でたった1回お会いしただけの中村氏ですが、追悼したいと思います。

 10年以上前の2007年5月、中村氏は一時帰国の忙しい最中、宇治市京都文教大学に来て頂き、私が勤務する現代社会学科(当時)の主催で300人の学生に向けて90分の講演、そのあと少数の教員や学生との交流会に参加して頂きました。印象に残る時間でした。中村さん、あらためて有難うございました。

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2. 同氏の活動についてはメディアが詳しく報じています。死を悔やむ声は日本だけでなく世界からあがっています。見事な生き方をした人だったと思います。師岡カリーマ氏のコラムを読んで、とても穏やかだった同氏のことを涙とともに思いだしました。

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 2007年に大学に来て頂いたことについては、当時のブログで紹介しました。

https://ksen.hatenablog.com/entry/20070526/1180142827

 交流会での質疑応答(Q & A)の一部を紹介した文章を以下に再録し、同氏のご冥福を心から祈りたいと思います。

「Q:なぜ始めたのか?なぜ続けているのか?

 A:よく訊かれるが自分でもわからない。格好よく言えば、ここで見捨てたら男がすたるとでもいった「見栄」「矜持」か・・・

  Q:尊敬する人物、あるいはロール・モデルは?

  A内村鑑三(ちなみに中村さんはクリスチャン)、宮沢賢治

  Q:われわれ、何も行動していない(そのことに多少は恥ずかしいと感じている)人間へのメッセージはあるか?

  :あえて言えば、時代にすりよらないこと、変わらないこと、若い人に寛容である こと、失敗をおそれないこと・・・あとはなにわ節と心意気でしょうか(たしか彼に は、九州の任侠の血が流れています)。

  終始、静かな、聞き耳を立てないと聞き逃してしまいそうな低い声で、おだやかに応対して頂きました」。

3.以上、2007年の京都宇治での思い出です。

 2019年12月初めは、やはり京都で過ごし、今出川京都御苑の近くにある親戚の家での、ごく気楽な茶事に出席しました。出席者は連れ合いを含めた身内6人で、いちおう私が「正客」、家人が「お詰め」をつとめたのですが、私を含めて客の中にお茶の作法など知っている人もいなく、無手勝流での茶席でした。

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 それでも一同でおいしく頂きました。やはり風雅なものです。

――茶の湯における客というのは、本来「一客一亭」。すなわち「一人の客と一人の亭主」です。したがって、原則は「正客以外は喋らない(亭主と問答しない)」、一人目の客以外(連客)は主客の会話を邪魔しない程度に参加する――のが作法だそうですが、もちろん我々はそんなルールは無視して賑やか・なごやかに進みました。

4. 家にはいちおう茶室がつくってあり、ここで従妹が亭主となり、時雨亭文庫という財団法人の事務局の女性が二人、お茶を点て、手伝い(「半東」と言います)をしてくれました。

 事務局の人たちは、男女を問わず誰もがお茶の作法はわきまえているそうで、さすが京都と思いました。それだけ文化に根付いている、庶民の間でも当たり前になっているということでしょうか。

 あとで聞いたところでは、地元の金融機関に入社すると誰もがお茶の基本を習わされるそうです。そうでないと、取引先を訪問しても相手にされない。

 また翌朝会った喫茶店「イノダ」の主は、約束がなくて友人知人の家を訪れるときでも、せんすと懐紙は用意して行く、と言っていました。「まあ、一服いかが?」と言われることがあるからだそうです。

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5. 実は、茶席を設けるのはせいぜい年に数回とのこと。いろいろ準備もたいへんでしょう。

 この日は炉が切ってあり、夏以来初めてだというので、早速習いたての知識を披露して、「本日は炉開きですね」と知ったかぶりをしました。

 もとの職場の友人でお茶の先生がいて、ときどき「遊び」で仲間2人と一緒にお茶を点ててもらいます。

 定年直前まで銀行に働いた女性ですから、本人が言う通り「ごく庶民のお茶」です。茶道具に凝ったりする贅沢な茶席と異なり、そこが我々のレベルによく合い、いつも楽しみに参加しています。

 今回の「正客」役はさすがに初めてなので、直前にこの先生に会って、いろいろ教えてもらいました。

 その際、堀内宗心という表千家の「重鎮」の茶人によるお点前を紹介した本とDVDがあり、これを貸してくれたので何度も見ました。

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 ご存知の方も多いでしょうが、この本によると、

茶の湯では、一年を炉と風炉(ふろ)の二つの季節に分ける。夏の間は炉は閉めて風炉を使う。

 炉の季節は冬から春ということになっていて、毎年立冬、旧11月8日ごろを目安にして、亭主自ら炉を開く。

 他方で、毎年製茶の時期は、夏の初め、茶の木の若葉の出た頃。その若葉をつみ、一度熱を加えて、すぐに乾燥させて水分をぬきとり、約半年保管して、自然の熟成を終えて冬が始まる頃、初めて封を切って使う。

 これがちょうど開炉の時と一致する。

 開炉はこの新茶口切の季節と重なっているため、茶の正月とも呼ばれる・・・・・」

 ということで、上記の「知ったかぶり」になったものです。

6.今回の京都での身内だけの茶席も、堀内宗心宗匠のお点前と異なり、道具も特別に名のあるものではありません。掛け軸も亡くなった叔父・叔母が書いたものを軸にしただけで、値打ちのあるものではありません。

 控えの間にある軸は、藤原俊成・定家の二人の姿と歌で、その点では面白かったです。

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 定家卿のは、新古今にとられた「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という歌でした。

 ちなみにこの歌を堀田善衛は、「絵画的といっても音楽的といっても、到底言い尽くすことの出来ない、言葉の解説一つしたにしてもぶち壊しになる、朦朧(もうろう)たる世界の構築」と評します(『定家明月記私抄』)。

 

 

『テムズとともに、英国の二年間』(徳仁親王)の英訳(続き)

1.1週間前の週末は、いつも散歩している東大で駒場祭があり、雨にも拘わらず大勢

の人出でした。

f:id:ksen:20191123110221j:plain2.その日のブログは、新天皇親王時代のオックスフォード大学留学についての回想録(英訳)を紹介しました。1週間後の今回も、このユニークな本を読んでいろいろ考えたことです。

(1) 何れ天皇になる人の海外留学は初めて。この本は、これを自らの文章で回想した。

(2) 2年3か月の英国留学で、庶民とはむろん違い、アルバイトの必要もなく、女王を始め王室や貴族たちに招かれ、優雅な体験をした。

(3) 同時に普通の学生と同じ扱いを受けて、寮に暮らし、真面目に勉学をした。(大学での唯一の特別待遇は、英国の首都警察から2人、1週間交代で警護がつき、彼らも寮に寝泊まりし、終始行動をともにした)。

(4)以上を通して、よく学び・よく遊び、稀有な体験をした。

3.(よく学ぶ)

 論文をどのように書いたかが本書の中心部分で、全体の2割を占めます。

 パソコンもインターネットもない時代に、自らあちこちの図書館や地方自治体の資料室を訪れ、コピーをとり、筆写する。参考文献を読み、テームズ川や史跡を見て回る。二人の教授から個別に論文指導と一般指導(チュートリアル)をうけて、書き上げる。

 そういった「学び」を克明に書き残していますが、その真面目さには感心します。いまの日本の大学で、学生はこんなに勉強するでしょうか。

 私だったら「遊学」で終わっただろう。しかし彼は勉強した。(論文は後にオックスフォード大学出版局から出版された)。

f:id:ksen:20191117103058j:plain(2階の右端2部屋が彼の書斎と寝室)

f:id:ksen:20191117103140j:plain(指導教官と、テムズ川の水門(水位を調節する)にて)

4.(好奇心旺盛で、よく活動する)

 音楽や運動に秀でていることをフルに活用する。

・音楽――ヴィオラの演奏をし、英国人の学生や友人とカルテットを組んで、モーツアルトシューベルトの四重奏を学内等で演奏する。

・スポーツ――テニスでカレッジの代表として出場。登山やボートやジョギングも楽しむ。登山では、スコットランドウェールズイングランドそれぞれのいちばん高い山を、全て自分の足で登った。

・友人とよく付き合う。

・街にも出かける。英国内外をあちこち旅してまわる。

・洗濯やアイロンがけも自分でやり、時に失敗もする。

 これらについて例えばこんな風な逸話を紹介します。

(1) ひとりで銀行の窓口にも行き、友人とディスコにも行き、パブでビールを注文して

みる。友人とパブの「はしご」をして“パブ・クロール(pub crawl)”という英語

も覚える。

 こういった出来事がいかに楽しかったかを記したあと、銀行もディスコも「生まれて初めての経験であり、おそらく二度とないだろう」と繰り返し書き加える。

(2) 写真を2千枚も撮り、その都度街の写真店に行って現像してもらい、店員とすっか

り顔見知りになる。

 ある日、「今日はたまたま古い店員が辞めるのでパーティがある。参加しませんか?」と突然言われて驚くが、喜んで出席する。

(3) カルテット(四重奏)を結成した経緯も面白い。学食で朝食を初めて隣りに座った

大学院の院生とたまたま音楽の話になって、「やろうか」ということになった。

(4) そして、この例のように、寮に暮らし、大学の食堂で三度の食事をとることがいかに交友を拡げ・深める大事な場かを語る。昼食が終わると30分ほどラウンジで時間を過ごす楽しさにも触れる。

f:id:ksen:20191112155310j:plain            (5) 食事やパーティの席での日本との違いにも気づく ――「私たち日本人は、パーティなどではお互いに顔見知りの人同士しか話合わない。しかし英国ではそんなことはなく、パーテイでも学内の食堂でも知らない人同士がすぐに話合う・・・そして話題も幅広く、日本と違う。例えば、当時の首相サッチャーの施策についての率直なディベイト(論争)だったりする。」

 だから、学外で同じ仲間と食事する学生も少なくない中で、彼はいつも学内の食堂で食事をし、たくさんの友人をつくり、多様な知を吸収する。

 また、夕食はときどき工夫を凝らすこともある。「玄米だけの夕食(Brown Rice Week)」が1週間続くことがある。何とも粗末だが、食事代は常と変わらず、「差額の代金はチャリティに寄付される」と聞いて彼は、「こういう資金を必要とする人・感謝する人が居ることを考える機会が与えられるのは、とても良いことだ」と気付く。

f:id:ksen:20160826124156j:plain5.(英国と英国人)

 最後に彼は、英国と英国人の特徴について、自分の結論を書き記す。

(1) 伝統と革新が良く調和し、共存している(「大学の儀式で何百年も変わらず、仰々しくラテン語を使う国であり、他国に先駆けて産業革命を興し、ビートルズとミニ・スカートを産んだ国でもある」)。

(2) 長期的な視野にたって考える(「日本人は、直面する課題には取り組むが、長い眼で物事を考えるのは得意ではない、と私は思う」)。

(3) 個人主義、プライバシーを大事にする。

(4) 他方で、社会的な人間関係に巧みで、障害者などの弱者に対して優しい社会である。

(5) そして、日照時間が少ない土地柄もあって、「明かり」を大切にする。

6.(英国を去るに当たって)

 英国生活を思い切り楽しんだ彼は、万感胸にせまる思いでこの地を去ります。

f:id:ksen:20191121120550j:plain「おそらく、私の生涯でもっとも楽しい時間ではなかったろうか(”perhaps I should say the happiest time of my life “)・・・」と。

 そしてヒースロー空港から飛行機に乗って,遠ざかるロンドンの街を窓から眺めながら、「心にぽっかり穴が開いたような気持ちがして・・・のどがつかえるようだった」と想いを伝えます。

 ――こんな日々は二度と戻ってこないだろう。それでも、天皇としての忙しい公務と重い責任の合間に、ヴィオラを弾いたり、好きなシューベルトを聴く時間があればよいな、もっと言えば、好きな勉強を続ける時間も持ってほしい・・・・ と思いつつ、本書を読み終えました。

7.(最後に感想)

そして僭越ながら、以下のようなことも考えました。

――果たして、究極の世襲制といえる天皇制とは、本当に必要なのだろうか?

 自分の生き方を自分では絶対に選べない人間がここにいる。

 少なくとも彼は、せめて娘には、「好きな生き方をしてほしい、好きな勉強を続けてほしい」と願っているのではないか。

 制度として女性天皇女系天皇を認めないのはおかしいという意見には賛成なのですが・・・・

 

『テムズとともに、英国の二年間』(徳仁親王)の英訳を読む

1.先週前半の東京は穏やかな日和が続きました。

f:id:ksen:20191120105701j:plain いつからか、年老いた野良猫が一匹、我が家の小さな庭に現れて日向ぼっこをするようになりました。最初は慎重に顔を出し、追い出されないとわかるとのんびり手足を伸ばして寝ています。

 隣人に訊くとそこにも現れる、誰かが餌をやっているらしく、家人が置いても口にしない。誰か無責任な飼い主が捨てたのだろうか、「ひとり」をどう感じているのだろうかなど、いろいろ考えます。

 可愛がっていた我が家の猫はだいぶ前に18歳で死んでしまい、その後老夫婦は、ぬいぐるみで満足しています。

f:id:ksen:20191121111703j:plain2.ところで10月27日のブログで、新天皇に関する英国エコノミスト誌の記事を紹介しました。

「亀の甲羅(のように堅固な)システムの奴隷になっている」と新天皇に同情する記事を読み、オックスフォード時代の回想録があると知って読んでみたいと思いました。

 ところが、1993年に学習院大学から出版された本書は中古しかなく、アマゾンで買うと1万円もします。東大の駒場の図書館にも置いていません。

 他方で英訳本は5分の1の値段で買えます。そこでこちらを手に入れて、このほど読み終えたところなので,今回は英訳の方を紹介したいと思います。

3. 1960年生まれの新天皇は、

(1)まだ皇太子になる前の徳仁親王時代に、1983年から85年まで2年4カ月英国に滞在し、オックスフォード大マートン・カレッジに留学、テムズ川の水運の歴史についての論文を書き上げました。帰国して、1988年には学習院大学修士も取得しています。

『テムズとともに、英国の二年間』は、帰国して8年後に出版された親王自身が書いた回想録です。

(2) 2006年に『The Thames and I, A Memoir of Two Years at Oxford 』と題して英訳が出ました。訳者はもと駐日大使のサー・ヒュー・コータッチ。本文のほか、チャールズ皇太子の推薦文、親王本人の序文や訳者の前置きも載っています。

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 チャールズ皇太子は「鋭い観察眼、繊細なユーモアのセンス、旺盛な好奇心、そして文章力があり、楽しく・興味深く読める」と述べます。「ユーモアのセンスがある」とは英国人の最高の褒め言葉でしょう。

 本人の序文は「留学から20年も経っているが、あたかも昨日のことのようにいまも懐かしく思いだす」と英訳に感謝の言葉を述べます。

 他方で訳者サー・ヒューの前置きには、「実は雅子皇太子妃(現皇后)が本書の英訳を手掛けたいと長年願っていたのだが、公務多忙もあり叶わず~」私がその任に当たることになったとあります(原著と英訳に13年の間がある理由かもしれません)。

4.さて本書についてですが、私はとても面白く読みました。ほぼ3年後、私自身もロンドン勤務となり2年半過ごしたこと、その際には大使を退官して日英協会の会長をしていたサー・ヒューに会う機会があったことなど、個人的事情もあると思いますが、チャールズ皇太子のコメントは的確だなと感じました。

 たしかに、「鋭い観察眼」が随所に見られます。生まれて初めての英国滞在で、何に気づいたか、何が記憶に残ったか、日本との違いは?・・・それらについての記述を読むことで、その人がどのような「観察眼」の持主かがわかるように思います。

(1)例えば、英国到着早々、バッキンガム宮殿のエリザベス女王にお茶に招かれる。

「私は英国でどのようにお茶が振る舞われるかに興味をもっていたが、会話は一向に堅苦しくなく、しかも女王自らお茶を入れてくれた・・・」と書きます。

(2)大学入学前に英語の個人授業を受けるため、日本滞在の経験もあり、そこで語学学校の経営にも関わり、女王付きの勤務もあるホール大佐のロンドン郊外にある屋敷に3か月滞在する。

 ある日、大佐の長男が、村の祭りに連れて行ってくれる。彼は、自分の家では「プリンス・ヒロ」と呼んでいるのだが村の祭りで知人に会うと、「日本から来た友人のヒロだ」と紹介する。親王はその違いに気づき、他人には自分を特別視しない気遣いに感謝する。

(因みに、オックスフォード大学では彼は正式には「ミスター・ナルヒト」だが、友人の学生や職員たちからは「ヒロ」と呼ばれ、本人も嬉しく思う)。

f:id:ksen:20191124083149j:plain(3)彼は大学に入るまで、何をテーマに論文を書くか決めていなかった。子供のときから御所に住んで外の世界との接触が制限されていたこともあって、「道」や「交通」に関心を持ち、学習院大学でもその研究を続けた。

 英国に来て、テームズ川の美しさにひかれて、水運の歴史を取り上げることになるのだが、初めてテームズを眺めたときの印象についてこう書き記す。

―「日本の河川とどんに違って見えるかに気付いた。どこを見ても日本のような堤防がなく、水が地続きの緑の間を静かに流れているのである。

f:id:ksen:20031219014222j:plain(4)大学を表敬訪問すると、マートン・カレッジの校長が早速校内を案内してくれる。

 カレッジは80人の院生と230人の学部生がいて、「ヒロ」は院生の一員になるのだが、校長は歩きながら、学生に会うと一人ひとりに名前を呼んで言葉を交わす。カレッジの長が皆の名前を記憶していることに感心する。

(因みに、オックスフォードもケンブリッジも、1つの総合大学が存在するのでなく多くの・小さな「カレッジ」の集合体である。後の章で、彼は英国の大学のシステムがいかに優れているかについて、その特徴を詳細に説明する。

 具体的には第一にこの「カレッジ・システム」、第二に「チューター(教員による個別指導)制度」そして第三に、全寮制をはじめ多様な学生の交友が可能になる様々な仕組みについて語る。

 そして、校長が学生の名前を憶えているのもカレッジという小さな規模のメリットではないかと考える)。

(5)また、オックスフォードの寮に住み、街にもしばしば出かけるようになって気づいたことに、

「よいことだなと思った一つに、ドアを通るときに前の人がドアを開けて後ろの人が通るのを待っていることである。歩いていて、ドアが自分の目の前で閉まってしまう経験はほとんどしたことがない」

(これはまことに些細なマナーかもしれませんが、たしかに日本と違いますね。

 日本では自動ドアが普通なのに対して、英国では(今に至るも)きわめて少ない,だからマナーとして定着しているという事情もあるかもしれません。

 実は、私も単に習慣になっているだけですが日本でも、自動でないドアを通る場合は、必ず通り過ぎたあと振り返って、後から来る人のためにドアを開けたまま待つようにしていますが、あまりそういう光景は見かけません。

 それと面白いのは、お礼を言わずに黙って通り過ぎる人が多いです。

 それにしても徳仁親王がこういう日常の些細な振る舞いに気づく人だということを、読んでいて感じます)。

5.というような具合に、彼が英国で、英国人の家庭で、大学で、街中でさまざまな経験をする、気づく、失敗もする、その逸話のひとつ一つを面白く読みました。

 物事をよく観察する人物だなと感じました。

 それにしても、まさに「百聞は一見に如かず(Seeing is believing)」ですね。

ブログへの皆様のコメントに考えたこと

1. この季節、東大駒場キャンパスへの散歩が気持ちよいです。朝夕はだいぶ冷えてき

て、銀杏の並木も色づいてきました。東邦大学病院の呼吸器内科の定期健診に行ったところ、先生が「今年はインフルエンザが早めに流行っている、ラグビーで人が集まったこともあると思う。来年はオリンピックでいろいろな病気感染の恐れもあるのではないか」と言っていました。

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f:id:ksen:20191110135937j:plain2. さて今回は、拙いブログにいろいろコメントをいただいているので、最近のを読み

返しながら、感謝も込めて、これらをご報告したいと思います。

 まず最初に、前回のブログに、京都祇園の町内会会長をしている岡村さんから、「ラグビーでは日本のおもてなしが好評だったようだが、(他方でついに)祇園町のあちこちでは、「私道での撮影禁止」の立て札が立ちました」というコメントです。

 祇園に観光客があふれて、舞妓さんを追いかけて写真を撮りまくったり、家の中にまで入ってくる、あまりのことに自衛策をとったということでしょう。

「道路保全費として町内会費の一部を積み立てていますが、祇園町地域は私道が90%だから出来たのでしょう。“許可のない撮影は1万円を申し受けます”の文言は取り消されました」とあります。

 90%が私道とは知りませんでした。自分たちできれいにしようという動きになるのでしょう。花見小路も私道なのかな。ここは随分前から電信柱がなく、地中化されてきれいな歩道ですが、その費用もこの道路保全費を当てたのかもしれません。地域住民の自治の力でしょうか。京都にはそういう町衆の文化と歴史があるのですね。

 当初、「1万円申し受けます」のパネルを格子に張り出したとたん、警察にまで脅迫まがいの電話があったそうで、問題は外国人の観光客だけではないようです。私たちもマナーを守ることが大事ですね。

「この地域には公衆便所はないので、路地や辰巳稲荷の鳥居の側でも用を足す」とも書いておられます。「お茶屋からの、祇園を観光地にしないで!という悲鳴を感じる」ともあり、悩みは深いようです。

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f:id:ksen:20190204143730j:plain3. 続いて、前々回は友人が書いた『2038滅びに至る門』を紹介したブログです。2038

年に核戦争が起こり、人間は滅亡に向かうというデストピアの近未来を描いた小説です。

 なぜ、この年を「滅びに至る年」として著者が選んだのか、たまたまなのか、私には分かりません。今度会ったときに訊いてみたいと思っています。

というのも、藤野さんから、「2,3日前の京都新聞コラム欄に尾池和夫という地震学者(元京大総長)が、2038年12月に南海トラフ地震が発生すると断言していました。「2038年」が妙に符合します」という面白いコメントを頂きました。

 それにしても、「断言する」とは怖い話ですねと返事をしたところ、下前さんから「断言しても責任を取らなくても良いお年だったと思います」と横から声あり、これには思わず笑ってしまい、「なるほど。2038年には現場にはいない・・・・。もちろんそういう私もあの世から「責任を取れ」と言うわけにもいきませんね」とお返ししました。

4. この小説には、核戦争の危険が迫る中で、「なぜ殺し合うのか?」について語りあ

う場面があり、「ヒトは特異な共食い動物」という指摘がありました。ここを読んで、梅原猛氏の「同類の大量殺害をする動物は人間だけ、ゴリラの方がはるかに平和な動物」という文章を思い出して、紹介しました。

 中島さんから、「最近の研究によると、チンパンジーは、集団で他の集団を殺戮することが観察されているそうです。(人間は)集団で仲間以外を襲撃する可能性のある類人猿の一種としての自己認識と、自省が必要と思います」とあり、京都大学のサイトを教えて頂き、たいへん勉強になりました。

サイトは、http://www.kyoto-u.ac.jp/.../research.../2014/140919_3.html です。

 とすると、同類の大量殺害をするのは人間のほか類人猿だけ。つまり動物は進化するほど残虐になり、自らを滅ぼす宿命をもつ存在になるのか、とすれば人間が真っ先に「滅びに至る」動物ではないのか、そんなことを考えました。

 因みに本書には、主要登場人物の一人が以下の仮説を述べる場面があります。

(1)ヒトには、殺りくの遺伝子と同時に、共存の遺伝子もあるはず。

(2)なぜ前者が優勢になるのか?殺りく派は兵器を持っているから共存派は負けてしま

う。宗教は殺りく派の手先になり、AIも道具になる。

(因みに、著書は宗教が人間社会に与える負の影響についてきわめて批判的です。「無神論者による無神論者革命」を起こそうという発言まで出てきます)

(3)しかし、ヒトの脳にはまだ使われていないところが多いと言われる。その中には共存をはかるものがあるかもしれないし、これまで使っている脳も使い方によっては共存の方向に変えることができるかもしれない。

(4)と述べて、「私は、殺りくに寄与している宗教やAIを脳から排除して、それをやってみたいのです」と希望の未来を語ります。

 ヒトの脳や遺伝子を変えることで、戦争をしない人間に進化できるか・・・・私には分かりませんが、気持ちはよく理解できます。

f:id:ksen:20190917104941j:plain5. 最後になりましたが、前々回のブログはたまたま読書週間中でもあったので、「本を

読む」楽しさについても触れました。小中学生は意外に読むが、読まないのは中高年という調査結果も報告しました。

 Masuiさんから、「私の孫たちは小中学生で、よく本を読みます。若い子供たちはよく本を読むという点ではあまり違和感がありません。しかし、電車の中で本を読んでいる人とスマホを手にしている人とを比べると、圧倒的に前者は少ないです。本を読んでいる人を見かけると微笑ましくなります。小学生の本を読む貴兄のスナップは最高です。」というコメントを頂きました。

よいお孫さんたちのようで羨ましいです。

 写真は、たまたま渋谷の歩道を夢中になって本を読みながら歩いている小学生の後ろ姿があまりに珍しいので撮ったものです。「危ないな」と危惧しつつも、私にも経験があり、やめられない少年の気持ちがよく分かります。

 大江健三郎の以下のような文章を思い出しました。少し長いですが、引用します。

本書は1988年ですから、ひと昔前、いまはもう見ることも殆どない情景ですが、大江のコメントに深く共感します。

「電車のなかで一冊の文庫本を熱中して読んでいた若者が一瞬窓から外の風景を見て、魂をうばわれたように放心している。

 僕はそうした様子を見るのが好きだ。

 かれは、または彼女は、いま風景を見ているのはちがいないが、それまでの読書によって洗われた眼・感受性、活気づけられ勢いをあたえられた心の動きで、風景を見ているのである。

 それまで読んでいた本の「異化」する力・文体が、窓の外も風景にまで、かれの躰のうちから滲み出しているのである」

(『新しい文学のために』岩波新書

6.以上、主にフェイスブックから頂く皆様のコメントや情報提供がたいへん勉強にな

っており、あらためて感謝をお伝えしたいと思っ